あの頃の一日

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夕方、自転車で海まで行ってみる。ゆっくりと漕いで行ってみる。昨晩は雨が降っていた。9月に入ったばかりなのにもうすっかり涼しくなっている。暑さはぶり返さないのだろうか。例えば2010年の9月は秋分の日までずっと真夏のような暑さだった。

2010年の秋分の日の前日の夜、暑い夜に、写真同人ニセアカシアの仲間三人が当時宇都宮市に単身赴任していたわたしのアパートに遊びに来て一泊した。その翌日に益子まで遊びに行ったのだが、その益子に行った日が突然寒い日に変わり、それはたしか秋分の日だった?前日まで真夏の暑さだったので、みなTシャツ一枚くらいの軽い服装で宇都宮にやって来たから、益子に行った雨の日はみな羽織るものも持っておらずずっと寒かった。私はアパートに長袖のシャツやカーディガンがあったからそういうのを着たけれど、みんなに貸そうにもサイズが小さすぎた。益子へは宇都宮線水戸線真岡鉄道と乗り継いでいき、帰路は東野交通のバスで宇都宮駅まで戻った。駅近くの居酒屋でニセアカシアの話し合いが進み、翌年、2011年の1月かな?ニセアカシア1号の発刊に漕ぎつけた。あの居酒屋での会議できっと日本酒を飲んであれこれ食べたのだろうが、なぜだか茸を食べた記憶があるのだ。(とここまで書いて、ではその日の写真を見なおしてみようと思います・・・いま古いHDDをつないで調べた。)たしかに居酒屋で撮った写真が四枚か五枚あったがみなメンバーを撮ったものでテーブルの上にはすでに食べ終わった皿だけが写っていた。茸をたべたかどうかわからなかった。とっくりがあったから熱燗を飲んだらしい。写真に写ったMさんもHさんもIさんも十年くらい経っているけれどいまとあまり変わっていないように見えた。たぶん私がメンバーのなかではいちばん、この十年で老けたのではないだろうか。写真同人ニセアカシアの写真集ニセアカシアは2019年1月に8号が出て以降二年半経ってしまったが9号に至れていない。2019年の暮れに学芸大学の件(くだん)という居酒屋に集まって、そのあとには近くの地ビールバーのような店に移り、9号はこんな風にしようと軽く話した。そのあと2020年になりコロナ禍になり、すっかり進めなくなっている。まぁニセアカシアはコロナ禍が落ち着けばまた発刊できるとは思っている。

いま、若い人たちにはけっこう厳しい日々が過ぎていると思う。だって、振り返ると自分の中学校の三年間、高校生の三年間、大学の四年間と、学校が変わると「区切り」があって、その3年3年4年にそれぞれのクラスメイトたちとつるんだり議論したりあほをしたりして過ごした日々は、その後の十年二十年をひとまとめにしたよりも、その頃の一年、ときにはただの一日がずっと重要だったと思うもの。なにか自分という人間のスタンスのようなものが、他者との出会いでなにが最初にインプットされたかとか、そこからなにが自分の嗜好に合うかが決まっていったとか、それに夢中になったとか、いくら誘われても断ったことがあったとか、そういうことがあの頃には例えばたった一日で決まっていったと思う。このまえ何気なくなにかのコロナ関連ニュースを読んでいたら、それに対する書き込みに「私の高校時代がどんどん残り少なくなっていてコロナが憎い」みたいな主旨の書き込みがあるのに気が付いた。それはそうだろうと思いましたよ。

まぁ、よくわからないのはそんな当たり前の素直な感想に対してなんでイイねの反対のボタン(ブーイングボタン?)を押す人が結構な割合でいるんだろう?ということの方だった。

 

とうめいにんげん

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写真はどこかの工事現場の工事中にだけ立てられる壁というか仕切りに貼られていたその工事の完成予想図。なぜか透けていました。雨風でインクが落ちてそうなったのかな?写真は斜めから深度を浅くして撮ってます。なんだかなぁ、なんでそんなことするのか自分でもわからないけど誰かが造った画像をそのまま複写するようなことに違和感があるのかもしれない。透明人間とか半透明人間とか子供の頃は定番の空想ネタでしたね。たいていは悪事を思いつく(笑)

みんなのうた の「とうめいにんげんなんだけど」

の歌詞をあらためて読むと怖いですね

三番)

とうめいにんげんは

ほんとにいたんだけど

とうめいにんげんて

やつはとうめいだから

ほんとにいたのか

じぶんでもわからないんだ

作詞は五味太郎

とうめいにんげんはだれとも交流が出来ずにいて

もしかしたら一方的には見たり聞いたり書いたり歌ったりしていても

それがすべて普通の人間には伝わらなくて・・・これはもう亡者のよう・・・

 

土曜日、午前のうちに久しぶりに電車に乗って外出。東海道線の密をさけるためグリーン車を使うが、往路は途中駅で家族連れが近くに乗ってきて、子供たちはマスクをせずしかも父親と子供たちは大声でずっと話しているからなんとなくコロナ対策ということでこちらから席を移動する。帰路は昼時になったら今度はグリーン車のなかで崎陽軒の焼売弁当などの弁当を食べながら隣り合って話しているカップルや友人同士や家族連れだらけになる。放送で飲食はするなと言っているけど放送に聞こえないふりをしているというより、放送に気が付かない人が多いようです。なのでまた少しは彼らからディスタンスを取れる席に移動する。茅ヶ崎駅ビルの丸亀製麺により、昼に食べるうどん弁当を買うことにする。列が出来ていて、列には前後の客と距離が出来るように立ち位置のシールが貼ってあるが、うねうねとくねっているそのテープで仕切られた待機列は前後には配慮があるけれどくねって隣り合っている数人先または数人後の人とはすぐ隣になってしまうのだった。

ここ一週間くらい読んでいた江國香織著「去年の雪」を読み終わる。上の写真を選んだ理由もこの本を読んだからかもしれません。百人を超える登場人物が時空を越えながら往還するけどその場面場面は日常のありふれた出来事に終始、というようなものであって、時空を行き来するのはカラスであったり、声に関してはそれを聴き分けることができる子供がいたり、たまに時空を超えた異世界へ一瞬迷いこむがそこからずっと異世界を彷徨うわけでもなくふっと戻ってくる(ことが多い)って感じ。例えば多和田葉子がこれを書いたと言われると、そうか!と感じるだろうが、ちょっと江國香織らしからぬ実験的な感じの変わった本だったという感想です。

上の歌詞のような「とうめいにんげん」も登場してきます。とうめいにんげんもウイルスに感染するのだろうか?

 

 

 

選択眼の時代かも

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2010年頃かな、もう少しあと?ダグ・リカードに代表される何人かの写真家というのか現代アート作家というのかよくわからないけれど、グーグルストリートビューから見つけた決定的瞬間というか、その作家の選択眼のお眼鏡にかなう場面を選んで切り取ってきてネットに挙げたり写真集にしたりして楽しむことが盛んになった。

ここ数日、同じようなことを自分でもやってみている。でも前の日のブログに書いたようにどうもまだ知らない場所に(架空的に)旅立つことが出来ない感じ。そしてやってみると実に根気のいる作業であり、すなわち滅多にそんな場面に出くわさないしストリートを進んでいくときにぎゅいーんって感じでぼけた像が動くPC画面を見ていると気持ち悪くなる。グーグルストリートビューはいつのまにか以前より解像度が上がっている感じがするのでこうしてブログに載せるにおいては十分になっているようです。

これは京浜急行神奈川駅だったかいまは駅名が変わったんだっけ?仲木戸って言ってた駅あたりから米軍の施設のある埠頭に続く道路です。立ち入り禁止の直前にスターダストとポーラスターいうバーがあるあたり(いまもあるのかな?)

グーグルストリートビューから場面を選んでアップする作家はいまも新しく現れているらしく、例えば、

ストリートビューの旅人 | WIRED.jp

この記事とそこに載っている写真を見ると、すごいなあ、と単純に思う。いいところを見つけて選んでいる。

選択眼ていまのデジタルカメラスマホやこういったネット上にたくさん画像があふれている時代になにか作品をまとめるには重要なことになっているんだろうな。そこになにかコンセプトを見つけてその選択行動を行うのか、街角スナップ同様あまりコンセプトに意識的にならずに自分の言葉以前の目と脳の感性で思う「ここ!」を選ぶのか。選択という行為にもなにかいろいろとやり方があってそれがこうした画像があふれる時代ゆえに発展拡大しているんじゃないだろうか。いや、発展拡大の可能性を秘めているのに結局は従来の既知の写真に寄り添ってしまう・・・グーグルストリートビューから選択した写真集やブログなどのその選択基準の方は、もしかしたらものすごく既成路線から始まっている感じもしないではない。

生家かもしれない家

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上の写真は昭和32~33年頃に舞鶴市の中舞鶴郵便局を背景にたぶん余部下公園という場所で昼休みにバレーボールで遊んでいるこの写真より後方にあった舞鶴共済病院中舞鶴分院の職員たちを撮ったものだと思います。父がアルバムに貼ってあった写真で左下に父の字で「ひる休」と書いてあります。もしかしたら郵便局の右側がいまの東舞鶴駅から盲腸のように伸びていた支線の終着の中舞鶴駅なのかもしれません。私が会社に入社した1979年にも昼休みになると会社の中の建物と建物のあいだの通路のちょっと広いところ(工場が併設していたのでトラックヤードなどもあって広いコンクリートの場所があったのですね)に食事を終えた社員が十人くらいかな、輪になってバレーボールをしていました。ほかにはキャッチボールやソフトテニスをしている人たちもいたし、もちろん居室で棒アイスを食べながらおしゃべりに興じたり、机に突っ伏して昼寝をしている連中もいました。バレーボールがいつから普及したのかをちゃちゃっとネットで調べると、昭和30年くらいには戦後の日本人に比較的安価にスポーツを楽しんでもらうという主旨で普及が促進されるとともに国際大会も開かれて日本が参加するようになり、それまで日本で主流だった9人制から6人制へと移って行った頃のようです。そういう歴史を知ると写真を見て「なるほどねー」と納得度も上がりますね。父がバレーボールをしていたかどうかはわかりませんが。私はこの共済病院中舞鶴分院で生まれました。父はその病院に勤めていて、たぶん病院の社宅いうか従業員の宿舎に住んでいました。

2005年だからもう16年も前の9月に東京駅からEF65がけん引するブルトレの「出雲」号に乗って翌朝早くに鳥取駅に着き、砂丘鳥取市内観光をしてから午後に城崎温泉まで鉄道で移動し城崎泊(一人で日本旅館に泊まり部屋でカニ料理を食べました)、翌日に鉄道で東舞鶴駅へ行き歩いてこの中舞鶴の、自分には何一つ記憶が残っていない生家のあたりを父の撮った写真をたよりに歩いてみました。下の写真はその旅行のときに自分でも写真に撮ったいまは撤去されて駐車場とテニスコートになっている中舞鶴分院のすぐ横になぜかいまも(2005年に行ったときも残っていてびっくりしたが今のグーグルマップ(記録されたのは2018年6月)でもまだ残っていた!)古い職員宿舎だったと思われる木造平屋が残っていました。雑草が生い茂り、誰か住んでいるわけではなさそうでしたが・・・かといってドアや窓が壊れているわけでもなくなんとなく維持管理はされている感じでした。よく見ると二軒長屋なのかもしれません。父が昭和32年頃に撮った写真にもこの平屋が写っていて、もしかしたら・・・この家の写真の手前の玄関を入った家か、写真の左側にちょっと見えるもう一つの玄関の家か、そのどちらかが自分の生家なのかもしれないのですがそこまではわかりません。

グーグルストリートビューで世界のどこでも旅できる、というか、まぁ見に行けます。だけどではどこかへ自由に行ってみていいよ、と言われてもすっかり困惑してしまいどこを見たいかわかりません。結局、自分の記憶やらこういう古い写真やらの「自分に関係ある国内の場所」を見に行き、せいぜいそこから少し道筋をたどって知らない場所を探ってみるって感じです。まぁそのうちに思い切って海外の街をストリートビューで散策することもあるのでしょうけれども。

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Google Street View に残っていた城ケ島京急ホテルのレストラン

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十年くらい前かな?ダグ・リカードはじめ何人かのアーティストがグーグルストリートビューで世界の道を辿りながら、その自動撮影カメラが残した映像から、あとから写真家(選択者)の主観で決定的瞬間を探して集めた写真集が現れて、それが多くの美術館にも収蔵されましたね。その頃からよくファウンド・フォトという単語も聞くようになりましたが、写真を撮るのではなく撮られた写真から「選ぶ」「集める」という行為も表現者のやり方のひとつと認めるのは、私は最初だけ違和感があったけれどやってみると面白いし、やはりこれも主観に基づく選択という個人の行為であり、たしかに表現者のやり方のひとつとして当然あってよいなと思ったものだった。その頃よりだんだんとストリートビューの解像度や画質も上がっている感じがするし、大都市などではけっこう頻繁に情報が更新されている感じがする。

久しぶりにそんなことをしてみたのだけどそういえば城ケ島の京急ホテルはもう閉館したと聞いたか読んだかしたことがあったのでPCモニター上で行ってみた。ここはこの写真の背中側が磯浜で西日が差すとロマンチックな風景になる場所です。すると、ストリートビューでは閉館後のホテルにまだ更新されていなかった。それでキャブチャーしたのが上の写真です。撮影は2014年と出ているのでずいぶん長いこと更新されていない。写真に写っているのはホテルのレストランだろうか?それともホテルに併設された一般客も入れる喫茶店なのかしら?店内のお客さんもふた組?海が見えるこちら側の席に座ってる。

城ケ島京急ホテルのことを調べてみたら1965年築。2020年閉館。跡地には「ふふ城ケ島」という新しいホテルが建つそう。ふふ××というホテルチェーンは最近ときどき聞く名前。

自分が撮った写真ではなく自分が選んだ写真だけど、なんかいいですね!と思う。自動撮影でもいいなと思う瞬間があることが写真というものに写真論が生まれて写真てなんだ?と考えてしまうひとつの特徴なんだろうな。だってちょっとウィリアム・エグルストンぽくないでしょうか?その「ぽさ」がどこから感じるのかも簡単にはわからないけれど。なんか自分が撮ってこのブログにぽつぽつと載せてきた写真より自動撮影が残した写真の方がずっとクールじゃないか・・・

グーグルストリートビューは一回は固定されたいつでもある映像のようだが、数年にいちど告知なく更新されていくのであれば、やっぱりモニターに現れる画像という風景は「いつかはなくなり変化する」宿命にあり、ということはそれをこうやってキャプチャーするのはやっぱり写真そのものとも言えるのかもしれない。

三崎

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十年くらい前だろうか作家のいしいしんじの本をたくさん読んだ、そのなかに「三崎日和いしいしんじごはん日記」というのがありましたね。東京から?三崎に移り住んだいしいさんが三崎の町で徐々に生活を確立し魚やさんや中華料理店と顔なじみになり・・・というその変化を読んでいるととても面白かった。本はもう売ってしまったけれどまたちょっと読みたくなった。いしいしんじの本を読んだころ何度か三崎を歩いたことがあったから、このブログでも「三崎」って入れて検索するとその日の記事が出てくるんだろう。今日はちょっと写真を撮りたくなって自家用車を運転して城ケ島に行ってみたがほとんどの駐車場が閉鎖中で、かろうじて開けている駐車場には車の列が出来ている状況だったのでどこにもよらずに城ケ島をあとにして久しぶりに三崎に行ってみた。三崎の港の駐車場は開いていたのでそこに停めて、街の中を歩いてみた。店はほとんど閉まっている。コロナ禍で自粛で閉じている店もあるだろうし仕舞屋もあるだろう。歩いていても人とはたまにしか会わない。唯一、数人だけだけど列があったのはアイスクリームの店だったろうか。帰り道、左側に秋谷海岸や森戸神社のあたり、葉山マリーナ近く、と左側の(西側の)車窓からもう日が沈んだあとのでも真っ暗にはなっていない海が見える。もう真昼間ほどには人がいなくなった(そもそもコロナ禍で例年の夏よりははるかに人は少ないのだろう)海にシルエットになって名残惜し気に海に残っている人がいる。ここ数回おなじことばかり書いている気がするが、夏が終わっていく感じをひしひしと感じる。

夜、NHKで再放送の大瀧詠一を特集した番組を観る。風立ちぬ、って曲は、なんで「すみれ、ひまわり、フリージア」って春~夏の花の名前が出てくるんだ?で、ちょっと調べたら作詞家の松本隆(はっぴぃえんどでドラム叩いてましたね)自身が「完全に意味のない」「しいていえば、すみれのれ、ひまわりのり、フリージアのり、でらりるれろって感じを出したい」とかなんとか本当か嘘かわからないことをおしゃっているらしいことが書いてありました。でもこのフレーズの前に主人公の性格が涙顔を見せたくないとか性格は明るいはずとか言っているから、自分をこれらの花にたとえているんじゃないのか?いまは秋だけど私は秋の花のようではない、と。などと作詞家が言ってないことまで推測してしまったり。

それで晩夏の曲を思い出そうとしましたが、なかなか思い出せない。谷川俊太郎作詞小室等作曲の「夏が終わる」という曲がありますね。すみれ・ひまわり・フリージアではなくてその「夏が終わる」はこうです。

 

あせたような薄い青空

とうすみとんぼがとんでゆく

ききょう かるかや おみなえし

あざみ ゆうすげ おわもこう

 

同じ谷川俊太郎小室等のコンビに「高原」という三連符がつながる感じの曲があります。こっちは真夏の避暑地で過ごすキャンプみたいなことが歌われている。

三番の歌詞は

 

見上げるとこわいくらい星がひしめいて

十年も前にはやった歌は

闇の中にこだまする

夜は思い出とともにやってきた

てのひらに酒をあたため

いま ぼくは生きている

 

70年代のテレビドラマ「高原へいらっしゃい」のテーマは曲名を忘れちゃったけど「夕べみた 夢のなかで」で始まる曲だったけど、もしかしてこの「高原」は劇中に使われていたのだろうか?

「高原」を聞くとこれは真夏のサマーキャンプの朝と昼と夜の様子をうたってい感じだけれど、それなのにもはや晩夏に共通な寂しさも同時に感じるのです。

夏至は6月で夏休みはすでに晩夏に向かっている季節、それをどこで感じ取るかというだけの話?

・サマーキャンプは7月か遅くてもお盆休みまで、それが終わるともう夏休みのメインイベントは終わり、寂しさが漂いだす。

・この歌詞にうたわれているようなキャンプの気持ちは後日に思い出して懐かしむようなことだろう(でも「いま ぼくは生きている」だから後日ではなくていまなのかな?)

・十年前にはやった歌を歌うということはすでに過去に向いている気分

そういうことで晩夏を感じてしまうのかな。

さて、私が学生の頃のサマーキャンプではキャンプファイヤーの火のまわりで「戦争を知らない子供たち」という曲が定番でよく歌われた。「われわれはいやおうなく戦後生まれであって、そして成長して平和の歌を口ずさみながら、戦争を知っている社会の先輩たちとともに大人としてやっていくので、どうか覚えておいてください、ヨロシク」みたいな感じ。上の世代へのメッセージだったがそんなことは意識せずに同じ世代の、仲間のアイコンのように歌っていたと思う。でもいま思うに当時この杉田二郎の曲を聞いた戦争を知っている人たちはどう感じていたのだろうか?いまだったらSNSでうざいとか引っ込んでいろとかまずは髪を切ってこいとかさんざん叩かれそうだけれど、当時は幸いなことにSNSはなかったのです。

 

二番より)

若すぎるからと許されないなら

髪の毛が長いと許されないなら

今の私に残っているのは

涙をこらえて歌うことだけさ

三番より)

青空が好きで花びらが好きで

いつでも笑顔のすてきな人なら

誰でも一緒に歩いてゆこうよ

きれいな夕陽がかがやく小道を

 

作詞は北山修

 

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朝の音

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だいたい目が覚めるのが日の出の少し前って感じで、このひと月くらいのあいだに、その起きたときに聞こえる音が様変わりしている。あ、大前提として部屋の窓を開けて眠ります。ひと月くらい前には圧倒的に鳥の声が多かった。四分音符三つならべて音程がミ・ファ・ソと繰り返してなく鳥は、その鳥の種類に特徴的な鳴き方だったのかその個体がこのあたりをテリトリーにしていて毎朝鳴き声を聞かせてくれていたのか。渡り鳥が遠くに渡って行って鳥がいなくなり鳴き声も聞こえなくなったってことなのかな、と思ったが、調べるとまだ渡りの季節ではないように思える。この写真を撮ったのは6時前に早朝散歩をしたときだけど、このこれから早々に家が建つんだろうという写真を撮った場所に来る前に電線を見上げると、ムクドリヒヨドリみたいな鳥はちゃんと数羽並んでとまっていた。すると鳥はいるけど囀りが減ったってことなんですかね。繁殖期とか子育て期とかそういうのと関係があったのか。いまは鳥の声はほとんど聞こえない。一方コオロギの声は盛んになっている、夜寝る前にも盛んに鳴いている、朝起きるときも盛んに鳴いている。朝がちょっと進むとその量は減ってくる。二十年くらい前まではマンションの南側に住宅街の中の小さな田んぼが残っていて春から初夏になるとサッシを閉めていてもうるさいくらいに蛙の声が聞こえたものだ。蛙はどこかに移動していったというよりある日重機が入って田んぼが埋め立てられてそれで一斉に死滅したのだろうか。それとも土に隠れていたのがじわじわと移動できたのだろうか。鳥の声や蝉の声が減ってしまい虫の声はそんなに大きくはないから、結果として人々の生活音が耳に届くことが多くなった。話している内容なんかはわからない。咳払いとかが聞こえてくる。人の生活音がするとなんとなく「暮らし」って感じがする。いや、鳥の声の聞こえる朝だって日常の暮らしの中なんだけど。町の中の暮らしといえども人の立てる音よりも鳥や蝉やコオロギの、すなわち人の分類的には「自然の」音の方がやっぱり良い。それにしてもなんで鳥は鳴かなくなるんだろう。