子供自転車と言えども力強い

 ウィリアム・エグルストン写真集「ウィリアム・エグルストンズ・ガイド」の表紙および80ページ目のメンフィスの三輪車を下から見上げたような写真。赤いハンドルグリップ、錆びたハンドル緑のフレームとサドル、黒く太いタイヤ、白いタイヤフレーム。三輪車の向こうに見える平屋のいかにもアメリカな感じの住宅。メンフィスに暮らす平均的な家族の平凡さの象徴なのか、フラットな曇り空と相まって何も起きない憂鬱を感じるべきか、人がいないことから不気味な静寂を思うべきなのか、そんなことが写真から読み取るべき正解なのかもしれないが、そんなことより、乗り物が大好きな子供の気持ちのように、三輪車と言えどもかっこよく堂々として、出発を待っている雄々しさが見える。子供であっても、ここに来て、三輪車に跨って、いざ出発するときは、ここではないどこかに憧れるように。

 土曜日の午前、茅ケ崎駅に向かって歩いていると、ビルやマンションが建て込んだ駅近くの路地で、マンション駐輪場の駐輪レールに載せられている子供自転車の写真を撮った。APS-Cサイズセンサーの小型MLカメラは、外付けEVFを家に忘れてしまい、背面液晶は夏のまぶしい太陽の光でよく像が見えず、写った写真を見たら自転車の前籠がぎりぎりで上にフレームアウトしていた。しょうがない。三輪車と二輪車の差はあるけれど、エグルストンの写真が心の片隅に浮かんでいたと思う。

 建物と建物のあいだのフェンスや向こうの建物のチープな規格品の壁や・・・エグルストンの写真のように背景に空や空間が広くある場所とは全然違う狭い場所の子供自転車だ。まだ補助輪も付いている。でもタイヤはマウンテンバイクのようにごつごつして太い。この自転車もなんだかかっこいい。いまはこの駐輪レールに載せられているが、いつでもどこでも行こうと思えば進める力強さがある・・・と私はそう感じて自分じゃない(当たり前だ、私は人間で、これは自転車だ)のに誇らしくなる。自転車に感情移入している。

 下から見上げる視点で白い蒸気の中から黄色い武骨なタクシーが登場するのは映画「タクシー・ドライバー」の冒頭場面だった。どうやら乗り物を擬人化して見てしまう。性差があるかわかんないけど、男の子は乗り物を擬人化することが多いのではないかな。

 今日は短め、こんなところで・・・

 

 

夏の思い出を話すのはちょっとダサい

 写真は一昨日行ったリヒター展です。

 今日、早くも関東地方は梅雨明け宣言が出た。それこそ一昨日のこのブログに真夏のように暑く晴れ渡った日だけれど、きっとまだ梅雨前線は南にあって、梅雨明け後の真夏の日とは気象図から見ると違うんだろう、なんてことを書いたけれど、梅雨前線はもう北に行ったか消滅したの?・・・と思って、例によってちゃちゃっとやってみたら、梅雨前線がない、という気象図になっているとのこと。どこへ行ったのだろう?

 本来なら梅雨は7月の中旬か下旬に明ける。そしてそれとほぼ同時に夏休みが始まった。

 名古屋に下宿していた学生時代の夏、18歳の夏休み前最後の授業が終わった日に、夜の11時頃に名古屋を出る急行(たぶん当時はそういう急行があったと思う)に乗って諏訪に早朝に着き、バスで霧ケ峰に行った。だけど霧ケ峰はガスっていて、ニッコウキスゲを見渡すことなど出来ず、予定より早いバスで諏訪に戻って来て、たしか駅前の映画館で映画を観て時間をつぶしてから中央東線経由で平塚市の実家に帰ったと思う。この話はきっとこの長年続けているブログのどこかに書いていると思う。この年はつま恋吉田拓郎かぐや姫の徹夜コンサートがあって8月になったら平塚から下りの普通電車に乗って掛川つま恋)まで行ったものだった。

 19歳の夏休みは実家のある神奈川県平塚市の自動車学校へ通って普通免許を取った。その前に名古屋で吉田拓郎のコンサートがあって、それを聴いてから帰るのだが、コンサートの予定日が、拓郎が風邪を引いたかなにかで一週間くらい後ろにずれたこともあって、実家に戻るのも自動車学校へ通い始めるのもその日数だけ遅くなった。毎日毎日拓郎のコンサートの日になるのを本を読みながら待っていた。たぶん五木寛之とか横溝正史。記憶ってのは面白いもので、拓郎が演奏したり歌ったり、曲の合間に話したことは、なにも覚えてないのです。何の曲を歌ったのかも。そのツアーが「明日に向かて走れ」というアルバムが出たあとのツアーだったから、そのタイトル曲はたぶん歌われたに違いないのだが。この曲の歌詞では

♪ほら、おなじみの友が来たよ 何か話せよと だけど 明日に向かって走れ 言葉を繕う前に♪

という歌詞が好きだった。言葉を繕う前に、のところが。後年、村上春樹のなにかの小説に、学生運動の最中、行動が思想を決定すると言われたがなにが行動を決めるのかは誰も教えてくれなかった、といったことが書いてあった(気がする)。たぶん風の歌に書かれていたんじゃないかな、ピンボールかしら。春樹はシニカルだけど、あの頃はちょっとそういう「言葉を繕わず走れ」といったようなのがかっこいいとされていた。一つ前のアルバム「今はまだ人生を語らず」も同じようなメッセージだろうか。繰り返すが、コンサートで拓郎が歌ったり話したところは覚えていないが、そのかわり、駅を降りて会場までの道すがらの人波のある光景とか拓郎が登場する前に見ていた誰もいないステージ、私の席からは正面から10°くらい右にステージ中央が見える席だった、そういうどうでもいいようなことを忘れずにいる。コンサートの帰りに地下鉄ではなく、本数は少ないけどうまく電車が来ればそちらの方が少し早く帰れる中央線の普通電車にひと駅かふた駅乗った。あれは(またちゃちゃっとやると)金山って駅がコンサート会場の最寄り駅で、そこから千種まで国鉄(当時、いまのJR)に乗り、千種から地下鉄で下宿のあった星ヶ丘に帰ったんだと思う。その夜のがらがらの普通電車、165系だったかしら、緑とオレンジの、に短い時間だけどガタゴトと揺られながら車窓を飛び去る町の灯りを見ていた。高架を走ったと思うけれど・・・さすがにこの記憶は相当怪しい。明日に向かって走れ はイントロのスライドギターもいいですね。数日前に拓郎の引退報道がありました。2019年の最後のコンサートツアーに私はつま恋以来約40年ぶりに行った。あれが生で拓郎を聴く最後になるのだろうか。

 20歳、3年の夏休みは、合歓の郷っていう鳥羽の方にあったリゾートのステージで合歓ジャズインという徹夜コンサートに行ってみた。男子4名女子1名の仲間で。これは山下洋輔や日野テルや、なぜかよく覚えているのは森剣二がリコーダーを同時に二本口に咥えて演奏していた場面、ナベサダも出ていたかなあ、ナベサダが吹いている場面があんまり記憶にないけれど、ベースの岡田勉が演奏している場面は覚えていて、たしかあの頃のナベサダ4はベースが岡田勉、ドラムスが守新司(←字が違うかも)、ピアノが益田幹夫だったから、ナベサダ4も出演したんだろう。ステージの合間に皆で真っ暗な坂道を下って海に降りて、夜光虫の光を期待したが、結局見つからなかったと思う。翌朝、コンサートが終わり、近鉄の最寄り駅までタクシーかバスに乗った。道は結構高い場所の料金所はあるが自由通過になっていたハイウェイで、崖の下に広く太平洋が見渡せた。水平線が丸く見えるようだった。そのときに、これだけ広い海なんだから、人の知らない生き物がまだまだわんさかいて、その中には、ネッシーのような恐竜もいるんだろうな、と思った。近鉄の駅で電車を待っているあいだ、誰かが、徹夜明けでも俺は元気だ!と言ってホームで腕立て伏せを始めた。それを見てげらげらと笑った。笑いながら、早くも晩夏の哀しさを思い浮かべていた。

 梅雨明け後にちょうど始まる夏のことは、ほかにもたくさん具体的エピソード記憶として覚えている。会社に入ったあとの夏のことも。夏はその記憶の数が他の季節よりも多いと思う。

 今日のブログは思い出話に終始してしまいちょっとダサい。

金魚がいて、ペーパーバックライターが流れている

  日曜日。この文章を書いているパソコン机のすぐ横の本棚に写真集が何冊も並んでいて、そこからひょいと一冊を取り出し、久しぶりに捲った写真集をネタにこのブログになにか書いたことは、最近だけでも二~三回あった。武田泰淳武田百合子の娘の木村伊兵衛受賞写真家武田花さんが1990年に出版した「眠そうな町」。写真集の最後に写真家の文章が添えてあり、写真が1987年春からの二年半に、佐野や桐生や伊勢崎で撮られたことがわかる。「晴れた日の真昼間、人通りの少ない見馴れない町を歩くのは、楽しく良い気持ちでありました」と書いてある。出版からすぐの頃に、NHKテレビで篠山紀信が毎週一人の写真作家を取り上げて、その作品と撮り口が紹介されたあとに、対談するような近未来写真術という番組があったと思う。そこに武田花さんが登場して、実際に上記のうちのどこかの町に行って写真を撮る場面があった。たしかコンタックスRTだったかな、それに50mmF1.4を装着していた気がする。当時VHSビデオテープに録画し、そののちDVDRにもダビングしてあるから、部屋中必死に探すと、見つけることができるかもしれない。花さんは百合子さんの「富士日記」にももちろん登場していた。

 真夜中まで人が行き交い、嬌声や罵声や悲しみの声や嘆きの声が混然一体に路地を通り抜け、酔客の千鳥足はそのまま人生の迷い道の航路のようで、それでも夢や希望があるからなんだか悪くない、むしろいい、とてもいい、そんな路地の町があって、その町が眠りにつくのが明け方近い午前3時だとすると、真昼間はまだ町は眠っている。誰も通らない、眠っている町(あるいは花さんの写真集のタイトル通り「眠そうな町)を起こさないようにそっと歩くと、夏の強い日差しが濃い影を作り、ビールやワインの空瓶や、いつの夜に誰が忘れて行ったのかビニール傘を照らしている。まだ眠っている町なのに、今日に限って早くも出勤したバーテンダーはドロップハンドルのロードバイクで乗り付けて、自分の店のお酒の在庫チェックをしている。飲むための町の正当な客として日暮れたあとに路地に迷い込むのなら正々堂々だろうが、眠っている時間に、繰り返すがそっと歩くのは、どこか後ろめたい気分すらする。しんとしているが、どこかの店の二階から、小さな音量で音楽が流れていた。それはビートルズの・・・

 同僚のI君は金魚すくいが得意で、あの紙を丸い枠に張った名前を知らない道具を渡されると、十匹くらいはどんどんすくえた。金魚すくいはコツを覚えると何匹でもすくえるんですよ、とI君は言っていたが、私はいくら教わってもだめで、姪や子供たちにもまったく頼りにされなかった。例えばこんな路地を通り抜けた先にある小さな神社の前の公園で縁日が開かれていて、金魚すくいが出ている。うまくすくえない五歳くらいの女の子が泣きそうになっているのを見るに見かねて、I君と同じように金魚すくいが上手な男が金魚をすくってみせる。四匹目は女の子に道具を持たせ、手を添えてうまくすくう。そこでもうやめて、あの上がきゅっと締まる紐がついたビニール袋に金魚を入れてもらった。女の子は得意気な顔でとうとうすくえた!と喜び、でも自分がすくった四匹目はぜったいあげられないけど、最初の三匹のうちの一匹をおじさんにあげる!と言った。いいよ、おじさんちには金魚を飼う水槽もないしね。そんなの買えばいいじゃん、欲しいでしょ!男は「欲しくない」とは言えない。会話を聞いていた金魚すくいの店の姐さんが一匹を別の袋に分けて入れ直してくれた。女の子の父親(金魚すくいが私のように下手くそ)が男にお礼を言った。

 ビートルズのこの曲は・・・なんてタイトルだっけかな?そうだ、ペーパーバックライターだ。やっと思い出して、音楽が流れている二階を見上げると、窓の枠のところに、透明ガラス製の口の広い花瓶が置かれ、花ではなく赤い金魚がゆらりゆらりと泳いでいるのが見えた。上の写真はペーパーバックライターが聞こえた路地で駅の方向に振り返って見えた光景です。そして上記の「例えばこんな路地を ~ お礼を言った」は窓枠に置かれた花瓶の中の金魚を見て、帰りの電車のベンチシートに座りながら思いついた妄想話。

 ペーパーバックライターをwikiで調べてみました。『あるとき叔母のリルから「どうしてラブソングばかりなの?」と問われたことをきっかけに、ポール・マッカートニーは新たなテーマを模索することとなった。(その結果生まれたのが)ペーパーバックライターであった』『歌詞は手紙の体裁をとっており、小説家を志望する人物が自身の作品を本として出版してくれるよう熱烈に訴えかけるというもの』1966年の曲だ。

 何かを志望する、夢見る、そういう気持ちを持つことが出来る年齢の人達は、素晴らしい人生の瞬間にいるってことに、その最中にいると気が付けずにいることが多い。のちのち後悔しないようにしてくださいね。ペーパーバックライターのように。

梅雨の中休みの真夏のような日にリヒター展に行く

  東京国立近代美術館は竹橋にある。目の前を皇居周回を走っているランナーが通る場所だ。東京駅丸の内地下道を辿って大手町の地下鉄駅まで歩き、一駅だけ地下鉄に乗る。竹橋には毎日新聞社のビルとして認識されているパレスサイドビル(竣工1966)があり、まずそのビルの、入っても構わない場所(飲食フロアなど)を歩いてから美術館に行くことが多い。ビルの正面入り口を入ると幅の広い階段があり、二階に総合受付があって、その二階の窓から風に枝がしなる街路樹がきれいに見えた。今日は30℃を越える快晴で蒸し暑い土曜となった。梅雨が開けたとは聞かないから、梅雨前線とやらは、まだ南にあるのだろう。なので、梅雨明け後の真夏の日と、今日の真夏のような日とを比較すると、なにか違いがあり、今日は「いかにも梅雨の中休み」なんだろうか。天気予報士はその差を気付いているかもしれないが、私には真夏のありふれた一日が今年はじめてやって来たということをもって、それはありふれてなんかいなくて、特別な始まりの日だ。何週間か前にもこういう猛暑の快晴の日ってあったかもしれず、上記の「今年はじめて」と書いたのは誤りかもしれないけれど、今日は「とうとう夏が来た」と私は感じた。

 近代美術館はゲルハルト・リヒター展を観に行く。思った以上に混んでいて、若い人がほとんどで、驚く。展示の目玉の「ビルケナウ」は抽象画で、抽象画には「すぐに見飽きる」ときと「なにかを見定めようと、時間を掛けてずっと」観ることになる作品があって、この「ビルケナウ」を見ていると、全く飽きない。同じ抽象画であっても見ていてもなにがなんだかピンと来ることもなく、こちらが「撃沈」され「お手上げ」になることが多いのだが。画面のあちこちの色、筆のあと、削られた絵の具のあと・・・そういうことのどこまでが意識的作画でどこからが偶然に任せているのか、アトリエの中のことは知る由もない。けれど、この「ビルケナウ」は仏教の曼荼羅を見ているような、その抽象画面のある部分を取り出すと、なにか群衆がシルエットになって立っているように見えるぞ、別のこの部分にはなにか川がうねって流れているように見えるぞ・・・という見立てた具象が連鎖する。それが抽象でありながら鑑賞者を引き付ける・・・気がする。写真家の西野壮平さんのコラージュの大型作品を思い出す。近づてい見ると、いろんな場面がコラージュに含まれ、そこから無数の層を成して世界があることを感じたが、あの曼荼羅のようなフォトコラージュと、リヒターの抽象画が、私という鑑賞者の心をざわつかせることにおいて似ていてるのかもしれない、それは結局は、この世界と人間をすごく俯瞰した高いところから描いた写真(西野さん)や絵(リヒター)なんだと納得できた(こんなのは私だけの納得に過ぎないかもしれません)。そして、絵の中で、雪が降り、暴風が吹き荒れ、人々は向こうへ向かって歩いていたり、その場でつつましく暮らしていたり、逃げまどったりしていた。歴史のなんてまだ短いことよ、そして人間はなんて浅はかで幼稚で過ちだらけなんだろうか。短い歴史を自ら閉じるリスクさえ抱えて技術進歩に比して思想の足元が砂上にあるようだ。それでも愛の讃歌に包まれるように歓喜もある。あるいはリヒターが描いたのは、菩薩や不動明王が見ているこの世界なのかもしれないとも思った。

 もしかすると、梅雨の中日の猛暑は、まだ海の水温が本当の真夏ほど上がっていないことにより、真夏よりも梅雨の中日の方が海風が強くなる傾向があるのかもしれない。

 

木の中の秘密基地に関する想像

 会社からの帰り道、車を運転して都内の片側二車線の幹線道路を北上している。ポッドキャスト番組を流しながら、青を三回通り抜けて、次は赤信号で停められる、そんな感じの繰り返しで進む。車が停まる位置は選べない。停まった前の車にあるべき車間距離を置いて続いて停まる。赤信号の先頭になり停止線に停まる。停まって、あたりを見回しても、写真を撮ろうと思う光景があるとは限らない。停められたうちのまた三回に一回くらいちょっと撮っておこうかなと思う光景がある。同じ光景でも撮るか撮らないか、気持ちの持ちようにもよっている。信号がまだまだ赤であるときは、運転手席のガラス窓を下げて、ガラス越しではなく撮る。そんなときには街や道路の喧騒の音が聞こえるようになる。今日は風があって木々が揺れていて、この葉は風向きによって、ある部分が一斉に裏返りながら、その葉が裏返る領域が動く。

 以下、作り話。

 例えば、この木のだいぶ高いところに、突然誰かの顔が現れたら、それはそれはびっくりするんだろうな。いま子供は木に登って遊んでいるのか?こういう木の内側の、高さ3メートルくらいまで登った場所の枝と枝のちょうど良い距離のところに板材を渡して、平面を作る。一メートル四方も大きさが取れればとてもいい。樹上の秘密基地だ。そこからさらに枝が細くなっていくから折れないかどうかを気を付けながら、枝の先へと辿っていて、葉の間からひょいと顔を出すと、幹線道路に走って行く車の列が見える。バスの中でつり革につかまったまま本を読んでいる人が見える。すぐ下のバス停留所でバスを待っている人も。ふざけて大きな声を出してみる、わっ!と叫んではすぐに顔を引っ込める。バス停留所にいる細い女の人が振り向いて怪訝な顔をしたから、ちょっといたずらは成功した感じだ。

 ある日誰かがカメラを持ってくる。秘密基地の秘密を知っている5人の同級生のうち一人くらいはそのカメラで写真を撮ることに夢中になる男の子がいるだろう。ほかの四人が秘密基地にせせこましく四人でくっついて座り、まるで鳥の巣の中の生まれたばかりの四羽のひな鳥のようにくっついて、でもここは僕らの基地だから誰にも知られず、そしてどんなに狭くても、ここにいることは最高に嬉しい。だから思い思いにゲームをしたり女の子に基地の写真をどこだがわからないようにしながらもスマホで思わせぶりな感じで送ったりするのだが、そのカメラが好きになった男の子は細い枝の先っぽへと登る。そして、もう「わっ!」とか言わない。誰かが発明したバス停の人に向かって「山田!」とか「高橋!」とか声かけては隠れるようないたずらもしない。そっとカメラをバス停留所に向けて、そこでバスを待っている、一人や三人や五人や、多いときは七人くらいの人の並んだ背中を撮ってみる。この写真、なにがいいの?とみんなに言われても、なかなかうまく説明が出来ないけれど、そういう写真がいつのまにか百枚も溜まって来ると、嬉しくなる。写真好きのおじさんが言っていた「定点観測」というやつかもしれない。

 意外なまでに長いこと、秘密基地遊びはすたれない。そこに集まることの律義さが仲間のなかで必要なこととされない。来ないことの自由が保障されている。これは最初に基地の七か条というのを作ったなかに明記されていたことが大きい。ひとつ、自力で登ってくること。ひとつ、誰にも言わないこと。ひとつ、来るも来ないも自由でいること。ひとつ、基地が壊れたときは最優先で直すこと。ひとつ、女子は連れてこないこと。ひとつ、持ち込んだものは共有物とすること。ひとつ、この秘密の基地を知る者は自由を愛する精神を持つ。

 最後の決まり、第七条はリーダーの男の子がちょうどそのときに読んでいた誰かの伝記の影響だ。秋になり葉が色づき、葉が少し落葉し、基地まで日が届くようになる。もう秘密ではいられなくなるのも近いだろう。冬の木々に鳥の巣がすぐに見つかるようなものだ。だけどそんな日が来る前に、基地仲間は解散となるだろう。それは第五条が破れれることが目に見えているからだ。

 やがて年月が過ぎて、五人は大人になっていく。誰も来なくなった秘密基地の枝と枝の間に打ち付けらた板材が朽ちていく。朽ちても完全には無くならない。一部が割れたり腐ったりしても。最後に誰かがそこに残していったビー玉が板の節の穴にうまくはまってずっとそこに目玉のようにある。たまに陽の光がビー玉に届くと、そこから虹色の光が分散して太い幹に虹を作ることもあったが誰も気が付かない。

 およそ十年後。あと数週間で新しく住宅を建てるのに合わせて木は切られることが決まったようだ。今日もバス停に人が並ぶ。朝の六時半だ。並んだなかにこの春から社会人になって、三か月たった若い男がいる。彼はむかし基地仲間だった。新しい建築計画が掲げられたから、合わせて木が切られるだろうとわかった。彼は振り向いて見上げる。この木の内側に作った秘密基地、誰にも見つからない場所の基地はまだそこにあるかな?と思う。バスが来た。グレーのスーツは暑いな、早くクールビズにならないものか、と思いながらバスに乗り込む。乗り込んで、つり革につかまり外を見る。木がある。彼はあっ!と驚く。枝の間から少年の顔が見えたからだ。秘密基地は誰かが復活させて使っているのだろうか?それともいま見えたのは幻だろうか。

 次の休日に若い社会人一年生の男は秘密基地を見に行く。基地は朽ちていて、復活などしていなかったが、ビー玉があった。彼はそれを持ち帰った。夜、ビールを一人で飲みながら掌でビー玉を転がしていたが、やがて飽きてしまい、ビー玉は引き出しにころんと入れられた。次にビー玉が取り出されるのは一体いつになることやら。

 ビー玉を引き出しにしまったあと、若い男は基地仲間の一人のことを思い出し、こんど一緒に飲みに行こうかな、誘ってみようかな、と思っている。あの、枝の間からカメラを突き出してバス停を定点撮影していた友だちは、カメラマンになったと聞いたから、ちょっと会ってみたいものだ。

通り過ぎる荒野

 23日木曜日、仕事仲間四人で日本酒&魚料理の居酒屋で19:00から22:10まで飲み会。ここひと月くらいで四人までの飲み会がぽつぽつと復活してきた、良きこと。
 飲み会の前に少し時間があったので駅ビルの書店に行ってみたら閉店のお知らせが出ていた。文庫本コーナーを見て回り、読みたい本が一冊見つかったが、まだ読みかけの本がバッグの中にあり、家には未読の積読タワーがあり、そこにもう一冊加えてどうするんだ?と思い、購入を踏みとどまった。本屋の一つ下の階はユニクロだった。一周りしてここも何も買わずに、エスカレーターに乗って地上階へ。
 駅前の広場の端っこでものすごい金切り声で若い女が男を罵って、蹴飛ばし、手にした財布で顔を殴った、でも男は平然としている。すると女の財布から何枚かの紙幣がこぼれ落ちた。見ていると男も女も冷静にお札を拾って財布に戻した。ところが拾い終わると、また修羅場が始まった。駅前の交番からお巡りさんが出てきて様子を見ていたが、なにも介入しなかった。今日あたり日が沈むのは一番遅い日だ。
 写真は近鉄線から撮った奈良の平城京の跡地?の写真で少しづつ復元が進んでいるのだろうか。暮れなずむ時間にだだっ広い中に、こうして復元された建物だけがあると、建物が無いときよりももっと、ここに昔、宮城があったのに今はもう荒野だ、という無常観のような気持ちが持ち上がる。電車の中にいて通り過ぎるから安心だが、今あそこに一人でいて、全速で走る特急電車が通り過ぎ、風が草を揺する音だけに囲まれたら、ぞっとするかもしれない。内田百閒のタイトルを忘れたが狐に騙される話があった、そういうことがあってもおかしくないと思った。そうか、それこそ今は荒れ地でも昔の人達の声が風に乗って聞こえてくるような不思議がいくらでもありそうなのだ。
 それにしても特急電車の速度が異様に早い気がする。わたしはどこへ向かうのだろうか?
 

蝋燭の光

 写真は京都六角堂です。

 蝋燭・・・誰かの誕生日に蝋燭を立てて、ハッピィバースデイの歌を歌ってから、ふぅーって息を吹いて火を消す、という定番の行為も、もう私はここのところ、そんなことをする機会に参加することもない。ところでそんな誕生日の習慣の意味は?と調べてみたら、あいかわらずちゃちゃっとスマホで検索なんだけど、ほらすぐに解説が出て来た。・・・という訳だそうです(調べてすぐ転記するのもなんだかなぁ、と思いました)。

 むかし、というのは半世紀くらい前のことだけど、今と比べるとしょっちゅう停電が起きていた。少しの大雨や大風で短時間、台風が来ると小一時間も。だからそういうときに備えて、懐中電灯と蝋燭は、すぐわかる場所に置かれていて、母がまず懐中電灯を付け、その光が照らした中から蝋燭を取り出し、マッチで火をつける。しばらく燃やして溶けだした蝋を空き缶かなにかに垂らして、固まる前に蝋燭をそこに立てた。停電が起きているからといって、なにか相当リスクが高いという気持ちにはならずに、ただ暗い中蝋燭の炎が揺れると自分や家族の、襖に映った影がゆらゆらと動くのが面白いなと思いながら、ラジオを聞いたり、わざわざ蝋燭の光が届く範囲に紙を持ってきて絵を描いたりしていたんだろう。それは、ちょっと日常ではないことから、楽しい時間であって、ずっと停電が直らなければいいのに・・・とさえ思ったから、停電が復旧し、蛍光灯がぱちぱちと瞬きするように明滅したあとにちゃんと点灯すると、なんだかそれまでとそこからが、非日常から日常へ、時間の断面があって、そこを乗り越えてしまったような気持ちになった。それは二時間の映画を観ているあいだにその画面と物語に引き込まれて感情移入し、映画が終わって外に出ると、映画館に入るときにはまだ明るかった外が、もう夕方に変わっていて、映画の世界がどんなに面白かったとしても、時刻が進んでしまったことに気付くと、必ずちょっとがっかりした、それに似て、停電が収まり、明るく灯った蛍光灯の下にまだ火がついている蝋燭を見ると、さっきまでの魔法のような光景を作ってくれていた光が、ずいぶんみすぼらしく見えたものだった。

 六角堂は(これもちゃちゃっと検索すると書いてあった)健康面でご利益があるそうです。

 そうそう、それこそ小学校の一年の頃、算数だったのかな、多角形を習った。角が三つが三角形、四つが四角形・・・六つが六角形。そのときに、五角形ではなく七角形や八角形でもなく、六角形がいいと子供の私は確信したようなのだ。この形はかっこいいな、と思ったのだろうか。ではなんでそう思ったのか、となると全く不明だけれど。その多角形を習ったのは、6月のことだった。と、はっきりわかるのは、6月生まれの妹が多角形を習っている頃に生まれたからで、父と私は、赤子(妹)の名前をどうするかを二軒長屋の縁側に座って、考えていた。父が真剣に字画の本を読んでは紙に鉛筆で候補の名前を書きだしていて、父にしてみれば私が一緒に考えているとは思ってもおらずただ邪魔している、くらいのものだったろう。でも私は私で真剣に妹の名前を考えていた。そして、多角形は、とくに六角形はかっこいいんだ、というところから天啓のように閃いた最高の名前が「六角子」(ろっかくこ)だった。そこで父に早速提案したのだが、相手にされなかった。こんなことを今も覚えているのだから、いい提案をしたと思ったのに即刻にダメ!と言われ、がっかりしたってことだろう。四角四面という堅物を言うような言葉があるけど、それが五、六、七、八・・・と進むと、円に近づくからだんだん「角が取れて丸くなる」方向だろう。実際丸くなりすぎるのと四角四面の中間であって六角あたりがいいんじゃないか・・・それでも「六角子」なんて名前は聞いたことがないな。