西荻窪


西荻窪に祖父母が住んでいたのはもう二十五年くらい前までだったろうか。駅から善福寺川の方にまっすぐバス通り、と言っても道幅は決して広くはない、その通りを歩いて行って、川にぶつかるとすぐの川沿いのマンションに母の方の祖父母が住んでいた。昭和四十年代に建てられたマンションだった。いまもGoogleマップを見ると、建て替えられもせずにそのマンションはあるようだ。
かといって西荻窪に詳しいわけでもない。そこがサブカルチャーの町でありカフェや個性派書店・古書店が点在していたり、駅近くの飲屋街に昭和の風情が残ってたり、アケタの店でフリージャズが時代のある一部を切り開いて行っていたり、そんなことは知らないまま、ただたまに祖父母のマンションに行っていただけだ。上記に並列したようなことも、アケタの店は祖父母のいた頃が活況の最中だったにせよ、昭和の風情の飲屋街などは別に西荻窪でなくても普通にどこでもあったから代名詞ではなかったろうし、カフェやら本屋やらは最近のことで、こうして並列に並べるのも、今現在はそんな風に捉えられる面もあるが、それにしても時間軸で考察すると乱暴きわまりないってことなんだろう。
街角を散歩しながら写真を撮ると言うと、なんだかとてものんびりしてる感じだが、散歩しながらたまたま撮るってことではなくて、撮るために歩くってことだから、撮るためにたまたま歩く、の方が正しいかも。木村伊兵衛森山大道須田一政や、ブレッソンやウィノグランドや、少し志向を変えて?エグルストンやショアや、いずれ、見てきた写真が混在一体にサムネールになってあたまにあって、それを参照にしつつもそれらに遠く及ばない写真をひたすら撮る。ひたすらのためにフイルムがデジタルになってくれて、しかし数打っても実は当たらなくなった、気がしたり。世の中は肖像権云々で、上記のカリスマ先達の著名写真のほとんどに写し込まれている無名の、市井の、人々は、いまや全員が有名で、市井に紛れず個性が探索可能なために、もはや写真の構成要素になる前に肖像権が全面に現れる。
すなわちね、町の風景を何百枚撮っても、その八割九割はこの権利のために表に出せない。
とある有名写真家が、肖像権の扱いを聞かれ、その答えに、撮ったあなたがその人を卑下しようと思ったり馬鹿にしようと思ったりしてなくて、カッコいいとか綺麗とか目を引くから撮っていて、撮られる方もカッコ良く見られたい、綺麗に見られたい、目を引きたい、と思って着飾って公衆のなかに出てる、それならば相思相愛なんだから、そんなみみっちいこと心配せずに堂々と出せるはず、と言うと、プロアマ問わず街角写真家はうんうんと笑顔で頷くが、当のカッコ良く綺麗で目立つ人達のなかには、相思相愛じゃない!と思う方も多いらしい。とくに日本は。数年前に比べ、数か月前に比べてさえ、ここに載せる写真の選択基準にこの件が影を落とす。
そんなわけでたくさんある室外機と柿の木の写真を載せました。でもこれだって、家の玄関先を撮るな!って言われる可能性があるわけだ。悪気なくても。
西荻窪、bookcafeの松庵文庫では、ただいま満席でーす、と、けんもほろろな感じで、すなわち待っていいのかとか、そう言う次の行動への参考情報をなにも貰えず、むっとして退散。昭和の名残色濃いどんぐり舎でとなりのおじいさんが盛大に吸う煙草の煙を、受動喫煙!などとは言わずに懐かしさの糧にして、珈琲一杯。数ある書店はみないい感じ。