柴田敏雄 須田塾 おでん


 茅ヶ崎駅11時半過ぎの湘南新宿ライン快速籠原行きに乗って恵比寿へ。正面に座ったカップルのきれいな女性の欠伸のときの口が、通常の予想を超えて、最後にぐんと大きく開く。野球で、だれそれの投げるストレートは手元に来てぐんと伸びる、と言うような欠伸だなあ、とぼんやりと思った。
 恵比寿では東京都写真美術館へ。柴田敏雄展と中山岩太展を見る。柴田敏雄といえばモノクロで、山の中の道路斜面の地すべり防止壁とかダムとかの土木風景を8×10で撮る写真家だと認識していたが、電車のなかで見たポスターにはカラーで撮られた赤い橋の写真が使われていて、そのポスターに電車の中で惹かれたので観にいく。カラーは最近になって撮り始めたという解説を読んでから見始める。大型プリントが8×10の緻密さという特徴を引き出し迫力を生む。ポスターにも使われている赤い橋、斜面のある領域だけ伐採されて切り株だけが残っている林、銀杏の黄色い葉が流れていく川。もし自分がそこにいても、そこに美しさなど感じないに違いない、撮らないに違いない、その風景がとても美しい。土木の造形はときにアートシーンの大型作品に見える、というようなことが作家の発言として書かれていた。
 写真は見たままを再現するような感じがあるけれど、人が見ているのは動画であり、実は同じ風景をじっくりと見続けていることなんかほとんどないのではないか?数年前の春、蒲田あたりの住宅地を歩いていて、マンションの前に満開の桜があり、きれいだと思った。その桜の下にはまだ回収されていない生ゴミの袋、白とか透明だったか、そうなるまえの黒だったか・・・よく覚えていないのだが、とにかくゴミ袋がたくさん積まれていた。それでも見た瞬間は美しいのだから、ゴミも含めてそう感じたのだから、これは私にとって美しい風景だったに違いない。そしてそこを写真に撮った。
 写真を見るときに、この場合はゴミ、ほかにも電線だとかフェンスだとか、所謂風景写真にとって一般的に「不要」とされるものがある。でも私はゴミがあっても美しいと思ったのだから、そんな写真の狭量な見方を越えて、私はゴミのある写真でも美しいと思えるだろう・・・と思ってその写真をプリントしてみたのだが、そんな期待というか思惑というか自信というかを裏切って、その写真はやっぱりあんまり良い感じではなかった。
 即ち実際にそこに立ったときには美しい桜の方に惹かれたのに、同じ風景を写真で見ると桜よりゴミに視線が行ってしまい、そこにいたときに感じた感動など再現できない。そういうことが必ずおきるのかどうか判らないが、そういうことがあるのだと明確に認識した。
 その理由を考えたときに思ったのは、よく聞くように人の眼は視線の中心だけが解像していて回りはぼやけている、それでもちゃんと全体が見えているのは、動画(視線が時間とともに動く)だからではないか?写真にして再提示した静止画を見るときには、リアルな風景を目にしたときと違って隅々まで点検するようになってしまう、だからゴミがあることがすごく嫌に思えたのではないか、などと考えた。
 柴田敏雄の写真には、それと正反対の美化が働いているように感じた。これこそ最先端の時代を切り開いている新しい風景写真なのではないか?とすら感じてしまった。もっともこういう興奮は例えば鈴木理策の「雪」や「桜」を見たときにも覚えたのだが。写真になったときにこの実景がどう転換するか、という計算ができることは、中田英寿や遠藤が、グラウンドにいるのに俯瞰した視線を持っているような特別な能力かもしれない、などとも思った。

 そのあと、恵比寿駅構内にあった讃岐うどんの店で「かも南蛮うどん」だかを食べる。システムがよく判らないまま「冬季限定」として大きく宣伝されていた「かも南蛮」を頼んでしまったのだが、まず素うどんを買ってからトッピングの天婦羅を選んで最後に会計する、というシステムだと知り、かも南蛮を食べつつゴボ天うどんにすれば良かったと悔やんでしまう。これは私の欠点で、誰かとレストランに入れば誰かの頼んだものの方が正解だったように感じるし、一人で何か食べているとこれが正解だったのか悩む。これはやはり相当けち臭いし、子供みたいでみっともない。

 神田珈琲園で須田塾の月例回に遅れて出席する。
 様々な妄想を呼ぶ写真が好きだと、須田先生がおっしゃる。私は、このブログに書いたことがあるように「記憶を呼ぶ写真」「記憶が転写する写真」に写真の価値というのか目的というのかを求めたいと思っていたが「妄想を呼ぶ」というのは、さらにそこから「物語が始まる」っていうような感じだろうか。ただ写真の価値や目的は別のものもあるし、一つの写真が一つの価値感に呼応したり一つの目的のためだけに機能するわけではないのだから、もっと鷹揚に、よいわるいではなく、好き嫌いを感覚的に感じて楽しむ方が良いのかもしれないな、と思ったりもする。
 今日の塾では(お名前をよく把握していなくて申し訳ありません)コンデジで夜景を撮ってきた方の不思議なカラーバランスと、のっぺりとした色の乗りが面白かった。
 須田先生、某さんにリセット・モデルとダイアン・アーバスの写真集を見るように薦めていらっしゃる。

 そのあと、神田の東北上越新幹線ガード下にあるおでん屋さんに行く。YさんやFさんと話したり、Iさんが力説していることに耳を傾けたりしている時間が楽しい。このブログに先週あたり書いたようなことは皆さん同様に考えているようで、なんだか私だけが一生懸命こんなところに力説しているのが恥ずかしいような気分にもなったりして。
 今日は随分暖かくて、持って出たジャンパーもニット帽もマフラーも不要。
 帰りの電車で、ボルヘス「砂の本」の「会議」を読み進む。
 おでんをたくさん食べてきたはずなのに、帰宅したら何か食べたくなり、夜遅くにトーストにバターと苺ジャムを塗って食べた。