写真の組み合わせ


 富士山を被写体に定め、その麓に住まいまで移してさまざまな富士のある風景を追求し続けている写真家の方は複数いらっしゃるようで、そういう人が出会い大変な苦労をされて撮影する、人間の価値感から評価すれば「非常に珍しくも美しい、滅多に見ることが出来ない」富士のある風景写真があるだろう。だからたまたま数年振りに箱根に行った11月に、こんな風な富士山を見てきれいだなあと思って写真を撮っても、この写真にはそういう特殊性は高くなく、特殊性に価値を委ねる評価基準からすれば評価は低い。しかし、この写真を撮ったときの私の・・・私の「状態」いや「状況」(誰と一緒に歩いていて、どんな話をしていて、何かの心配を抱えていて、周りの観光客にどんな人がいて、等々)については、ひとつきの時間が流れた今でも私は覚えているから、この写真を見た私自身にとってはこの写真は記憶の入口となっている。だから、滅多に見られない美しい富士の写真を見てみたいと思って見る富士山の写真という価値においては自分が撮ったこの写真よりも著名な富士山写真家の方の撮った写真を見るべきだし、そうではなくて個人的記憶をたどりたければ、この写真の方が私にとっては重要になりうる。
 いくらかっこよいスーパースターが好きであっても、恋人がスーパースターと同一になる確率は宝くじに当たるよりも低くて(あたりまえだ・・・笑)、それより個人的なことを知っていって、知ったことが深まることによって愛が育つから、スーパースターでなくても人は種をつないでいる。というかそうやって誰かにとっての個人的なスーパースターが出来上がるなんてふうに、ラブソングでは歌われるかもしれないな。・・・これは脱線。
 記念写真とかアルバムに貼られた写真は、それがプロの撮った特別な写真でなくても、最初から私的な状況がまとわりついているからそこにかかわった人(撮った人とかその家族または旅行に一緒に行った人など)には価値が高い位置にある。記念写真の原初的パワーだろう。
 とこういう風に書きながら考えてきたら、観光客の多くが、旅先で「たいしたことのない」観光地の写真を量産しても、それぞれにとってはそれぞれの写真が記念写真の原初的パワーに満ちているから、なるほど捨てたもんじゃない。とくにこの富士山を背景に家族や恋人が写っていれば申し分ない。

 なんてことを書こうと思っていたわけではないのだった。もう一回、書きたかったことを・・・

 一昨日の須田塾で、私は約80枚くらいの写真を持っていって、30枚か40枚くらいの写真を選んでいただいた。この富士山の写真もその中にあって無事(?)選ばれた方に入った。そのときに先生がひとこと「いいですね、これ、絵葉書写真みたいで」とおっしゃった。ここまで読んでいただいた方の中には、
1:この一枚だけを取り上げれば、最初に書いたとおりであって、この写真はありふれた富士写真にすぎないではないか!
2:絵葉書的写真というのは風景写真の評価基準としてはあまりに定番的であるということで褒め言葉ではないのではないか!
と思う方もいらっしゃるかもしれない。しかしそうではなくて、この写真は選ばれた他の数十枚の中にあってこそその対比の中で「絵葉書的」である要素が複数の写真全体から語りかけてくる様々なことの、その「様々」な広がりを広げるために寄与しているということだと私は解釈している。
 もう数十年前に、浅井慎平の書いた本(写真はスポーツである、とかそういう本だったか、それじゃなかったか?)に(既存の価値を評価基準にして、一枚の写真で勝負するような)写真誌の月例になんか参加してはいけない!と書いてあったように思う(が、違っていたらすいません)。
 例えば、この写真を見て「昭和のころによくあったような絵葉書的な写真だなあ、そうだよなあ、よく買ったよなあ。それで宛名面の下半分に万年筆で文章を書いて、大抵書くための面積が足りなくて、最後になって字が小さくなったものだよなあ。阿蘇に行ったときにも絵葉書を買ったし、十和田湖でも買ったなあ。そうだった、阿蘇に行ったときには私はちょうど就職前の春休みで、旅行のあとに入る予定でいた寮のことでいろいろと心配していたなあ。新しい友人が出来るだろうか?とか。懐かしいなあ」という風に連想(これは記憶を辿っているだけだが、更には希望とか夢想とかも)を広げていくことが出来るだろうが、その横に、中年の男性が飲みやでぼんやりとした顔でこっちを見ている写真があったり、西日を受けた古い市営住宅の建物の写真があったりすると、更に物語は広がり易い。そういう全体の中の一枚、ほかの写真との組み合わせ、対比から生まれることの広さ、そういうことが須田先生の写真の選ぶ基準になっているのではないかと思ったりした。
 だったらここにただ一枚でこの写真を出しても仕方ないと言われれば、そのとおりです。

 月例や多くのコンテストの写真はシングルチャート争いのようかもしれない。一方で数十枚の写真を、写真展や本を想定して選ぶ作業はアルバムを作るようなものかもしれない、と、たまたまさっきからこの日記を書きながらずっと音楽を聴いていたので、そんなことを思った。

 尾仲浩二だったか、これまた違ったらごめんなさい、何かの雑誌だったかブログだったかに『旅の途中で紅葉の盛りから少しだけずれた風景に出会ったときに、人から「もう何日か来るのがずれていたらばっちりだったのに残念でした」的なことを言われたが、そんなことのために立ち止まらない、旅は一期一会で紅葉のピークからずれた風景が目の前にあったらそれが私の旅で見た風景なのだ』みたいなことを書いていた。
 目の前を撮り続けよう。

青春の光と影

青春の光と影

リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ

リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ

nowadays

nowadays

(この三枚に全て入っているオリジナルはジョニの「both side now」(青春の光と影)を聞き比べながら書きました)