昭和六年の写真


 朝起きて、ベッドの中のぬくもりから抜け出せないままにリモコンでテレビのスイッチを入れたら「ごくせん一挙放送」をやっている。そのまま、二本、見てしまう。お笑い系青春学園バラエティドラマではあるが「人間ってえのは、一人じゃ生きていけねえんだ。だから仲間が必要なんだ」とか「素手でケンカをすりゃあ、こっちのこぶしだって痛いだろ。だからわかりあえるんだ」とか(本当にそんなこと言ったかもう自信がないけど)ヤンクミが言うと、ちょっと感動したりする。

 昼前に家を出て、亡父の墓参。

 帰宅後、少しだけ昼寝をしてから、家中の部屋に掃除機をかけ、ブラインドを拭いたり、箪笥の中を整理したり、一応大掃除みたいなことをする。

 この夏に、六本木のフジフイルムのギャラリーで俳優・佐野史郎の実家にあった佐野家のアルバムにあった写真を使った写真展とトークショーを見たことがあった。そのトークショーには佐野氏のほか、作家の柴崎友香と映画監督の林海象も登場し、その話の中で、写真は撮ったあとワインのように「寝かせる」と良くなる、と言っていた方が、誰だったか忘れたがいらっしゃった。あるいはもっと曖昧なのだが、このまえ誰か写真仲間と話していたときに、写真を撮ってもしばらくは見ないで忘れたころに第三者の目になってセレクトしている人がいるなんて話を聞いたように思う。
 時間が経った写真がどうしてこうも魅力的なのか?あれこれ理由をくっつけようとすればでっち上げられそうだが、どれも狭量で安易な理屈にすぎなくなりそうだ。
 佐野家のアルバム写真展を見たあとに、私も古い写真を見てみたくなり、実家に行って古いアルバムをたくさん借りてきた。今日は、そのアルバムを二冊ほどめくってみた。ほとんどの写真は被写体になっている子供の父とか子供の母が写った記念写真だが、ほかに遊んでいるところのスナップとか鉢植えの石楠花の花の写真とかが混じっている。そういう記念写真ではない写真を見ていると、そこにカメラを向けた祖父(なのかな?)の、幸せな気分が写っているように感じるのだった。いや、本当は大人が単純に幸せだけを感じていることなどなくて、それらの写真を撮っているときにも、抱えていた不安とか悩みとかもあっただろう。ただ、もしかしたら、時間が経って未来が過去になった目で見ると、幸せが際立つのかもしれない。それは、なんか細かい部分を全部差し置いてひとことで片付けてしまうというチープな感情なのかもしれないが、でも暖かい気分になるのは事実だった。
 この写真は、四歳の父と祖母が写っている。こんな風に家を全体写せた小高い場所はどこだったのかな?樹を拡大して見ていくと、当たり前だが葉が一枚一枚写っている。いまも全く同様に樹には春になると新緑が芽生え、秋には紅葉して、落葉する。昭和6年秋と書かれたこの写真の樹も紅葉しこのあと落葉するであろう葉がちゃんと写っている。
 そんなことはここに書くまでもなく当たり前なのだが、でも書かずにはいられないようなざわざわした感情が呼び覚まされるから、古い写真というのは不思議なものだと、あらためて思った。
(接写したときに左上方に蛍光灯が反射したのが写ってしまっている。また撮り直そうっと。)

 で、夜にはソファーに転がって、レコード大賞の番組を見ていた。