薔薇の花


 そろそろ薔薇の花から紫陽花に花の季節が変わる頃だろうか?一昨日の夜、部屋の掃除をしていたら2L版にプリントした写真が何枚か出てきて、それは昨年の夏に、須田塾に持って行こうと思いプリントしたものの、なんだかプリンターだかスキャナーだかの調子のせいなのか色が黄色に転んでいて変だったので、持って行かずに放っておいたのだと思う、たぶん。掃除が一通り終わったあとで、その写真をコンパクトデジカメのマクロモードで接写した。天井の蛍光灯が反射しないように、カメラをナナメから向けるから画像は歪むしピントも中央にしか合わない。それを効果として遊んでみようと思って何枚か撮ってみるが、すぐにあきる。こんな接写遊びも最初にやりはじめたころは楽しかったが今はあまり楽しくないなあ。元の写真は一昨年の秋に京都市役所近くで撮った薔薇だと思う。
 今週のこと。水曜日と木曜日は火曜日に古書店の100円均一棚から買った宮部みゆきの「理由」を読んだ。いつも通りミステリーを読むと止まらなくなり600ページの本を、通勤バスやら帰宅後から寝るまでの時間やらで読みきる。文庫とはいえ厚く重いからベッドに転がって仰向けで読んでいると手や肩が疲れてくる。そんなわけで読書肩凝り状態になっている。ミステリーは読んでいるときには夢中になっていて楽しめて、でも読後はやっぱりどってことない。その前に読んだ角田光代の方が考える端緒みたいなところが引っかかって残っている。だからミステリーはダメと言っているのではなく、エンタテイメントとしてはだからこそ(読後どってことないということこそ)真髄だろう。しかし結果として寝不足が深刻になってしまった。

 価格ドットコムのとあるカメラの書き込みで「写真は芸術か?」という投げかけに物凄い数の投稿があって議論が沸騰しているのを読んだ。金曜日のこと。カメラ等により構成される平面作品が出来上がる道具やシステムをどう使いこなしてどういう目的の写真を提示するかは、目的によって千差万別であるから、一義的な投げかけをされても定義できないだろうな。それと芸術の定義も不明だし。既存の所謂サロン写真の「良い」とされるものを作るのは作法の上手のように思えるけど、それも本当の最上級のものは芸術につながるかもしれないし。あるいはどんなに技量が稚拙でも、同時代性や新規性が何か美術の最先端のどこかをこじあけているかもしれないし。と、考えてくるとこれは質問が成り立っていないんだな、きっと。「文章(を書くこと)は芸術か?」と聞かれたようなものなのではないかしら。
 でも写真家にはそういう意識がなかったであろう記録を本望としたアッジェやウォーカー・エバンスの写真が、見るものの心の奥にざわざわとしたいろんなこと(主に記憶、あるいは想像)を呼び起こす力持っていて、具体例をそう提示すれば少なくともある種の写真は、芸術なのか何なのかは定義しないとしても、大いなる力がある。

 今日の夜はテレビでサッカーを見ます。