暮れ時が長い


 自分におけるちょっとした流行がいまは家のDVDで邦画を見ることになっていて、今週も「南東角部屋二階の女」と「サイドカーに犬」を見た。こんな流行はほんのひとつきくらい続くだけで大抵は次の何かに移って行くのに違いない。「南東角部屋二階の女」は舞台となるアパートやその庭、アパートの土地を持つ老人の母屋、などがやたらといい。映像の作り方はなんだか川内倫子の写真みたいなハイキー感がある。柔らかいハイキー表現は、静止画においてはガーリィフォトの一派として「またぞろ」感が湧き辟易としてしまうところがあるが、動画で見ると結構面白い。棕櫚とアパート、庭の焚き火、などの場面が私にとってはこの映画の大きな価値だった。
 家族のMとSの女性陣に、西島秀俊加瀬亮が出てきて、二人がけんかをする場面があったと言うと、なんだか異様に盛り上がって、キャー見たーい、とか言っていた。女性陣の感覚はわからない。
 古いアパートや住宅は、古い由緒ある近代建築が保存されるのとは裏腹に、さっさとどんどん消えていく。ここで言う「古い」がだいたい昭和30-40年ころのものをさすとすると、十年後に「古い」は昭和40-50年ころのものを、二十年後には昭和50-60年ころのものとなっていって、いまは昭和60年の建物にはまだ感じられない何かが二十年後には住宅にまとわりついてきて「懐かしい」と思うのだろう。懐かしいと思う原因は、表面的には建築様式(流行)や材料やデザインや平均的敷地面積などの変化があるから、そういうことから参照すればぱっと見の外観だけで、古いものだということが判り、そういう住宅が主流だったころを生きてきた人は同時代にいた記憶があって、そこにはその時代の個人の記憶もあって、だから懐かしいと感じると理解するのが一番わかりやすい説明なのだろう。でもなあ、なんだかそういう表面的なわかりやすい説明のもう一層奥に、もっと別次元の理由があるような気がする。例えば同じときに建てられた同じ様式の住宅が二軒並んでいて、でもどちらか一方は「サンプル」であって誰も住んだことがなかったとしたら、そのサンプルの方から感じる懐かしさってどうなのだろう?
 ある人がある別の人のことを話すときに「あの人って変な人」と言うことがある。この「変」には二つあって、ひとつは誰が見ても「変」なことで、そっちの「変」はさておき、もう一つは誰でも持っている個の部分の癖とか好みとかの差異の部分を知ったことをさす「変」で、この後者の「変」は、知ったことによってもしかしたらそれが好意になるきっかけを示しているのではないか。知ることは恋愛に限らずもっと広く愛情の始まりだから。あーそうだ、一生懸命こんなことを書き始めてみたが、RCの「君が僕を知っている」なんていうのはそういうこと(知っていることが広義の愛だということ)を歌っている、と書いたほうが判り易いだろうか。
 古い住宅には、人が他の人に見え始めるこの「変」の部分みたいなところが露出しているから、懐かしさ、という感情に分類すべきかどうか自信がないが、愛情が生まれる・・・様な感じなのかな。
 昨年の夏に京都の同時代ギャラリーで開催したグループ展に私が出展した写真は古いアパートや住宅や団地を撮ったものが多くて、そのあと昨秋に浅草橋のギャラリーの須田塾仲間の3人展でもそういう写真を出したのだが、街を歩いていてなぜそういうところを撮りたくなるのか、自分で撮っていて、その真相はわからない。撮りたいと思うから撮っていることは事実なのだが、なぜ撮りたいと思うのかを申し述べよ、と言われるとはっきり判らない。上に書いたような「古い」ことによる懐かしさみたいなのがぐちゃぐちゃと絡み合った結果なのだろうけれど。
 そういう私の写真に対してS先生が「外から見ていると平和そうな住宅で、でも中では何か恐ろしいことが起きていそうで怖いですね」というようなことをいつもおっしゃる。こう言われる段階ですでにS先生の個人的な記憶が写真とのあいだに成立する関係に寄与しているから私の撮った写真がS先生に作用している状態は私の写真ではすでにない。 友人のNさんも私の古い住宅の写真が好きだと言ってくれたが、彼女の場合はどういうことからそう思ってくれたのか?まだずっと若いのに。

 映画に出てくるアパートからこんな風なことを考えた(というよりここに書き始めたことで書きながら考えてしまった)。
 そして、この映画をいつ見ても必ず私がこんなことを考えたり、あるいは映画のアパートをいいと思ったりするのか?これがまたそうではないわけで、多分。先週から野村仁展を見たり保坂和志著「カンバセイション・ピース」を読んだりしていたことによって、あるいは天気や季節や体調や仕事やなにやらのことも含めて、映画を見たときの私の状態にさまざまなことが作用していて、たまたまこの土曜日の午後にこんな風にここにつらつらと書き連ねることになっているってことなのだろう。

 いまは一番昼が長いころで、夕方の車窓風景もいつまでも暮れ時が続いて美しい。たぶん写真に写っているのはハルジョンの白い花でしょう。