写真の動機


 夜、小田原城址公園に夜桜を見物に一人で出かける。帰宅後に撮った写真をチェックしていて、すると、撮ったときには特にそこを撮ろうという強い願望もなく、ちゃんと撮るために露出を変えたり何駒も同じところを撮るなんてことは全くしていなくて一こまだけこの風船が淋しげに浮かんでいる建物の写真があった。撮ったときには風船を撮ろうとしたのではなくて、あるいは右側のハーフティンバー風のレストランか何かの建物を撮りたかったわけでもないく、さらには後方の配管が赤土色のビルを狙ったわけでもない。何かといえば、実は窓に影が見えているブラインドがなんだかひしゃげていて、そこから家の中の光が洩れているようなところに目が留まったのである。だからそこにふと目が行き、すぐにカメラを持ち上げて、一瞬で撮ってしまって、風船が浮いているのは一瞬なにかあるなと思っただけだったし、右のレストランや後ろのビルなんかは全然意識していない、というか、撮ったときには見ていない。はっきりいってもちろんたいした写真ではないけど、帰宅して撮影した300枚強の写真をスライドショーでチェックしていたら、ふと目に止まったのは事実であり、少しはもっとなんてことない目に止まらない写真よりは、自分にとっては強かったということだ。撮ったときにはなんてことなくて、あとで見たらちょっと気になったということだ。そういう写真をAタイプとします。
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 次にこの写真は、一昨年の九月に亡くなった象のウメ子の象舎。小田原城址公園には小さな動物園が、この範囲が動物園ですよ、という感じではなく、城に続く道を上がって広場に出ると、土産物屋やトイレや休憩所と同じ感じにぽつぽつとケージがあって、いまは何がいるのか?以前はこの象のほかに、ライオンだったかトラだったかのどちらかの猛獣もいたし、猿や熊もいたはずだ。村上春樹のダンスダンスダンスにも出てくる。
 二十代のころにこのアングルから、昼間に、象のウメ子と飼育員のおじさんが並んでいる写真を白黒のフイルムカメラで撮ったことがあった。誰と小田原に、何のために行ったのか?子供を連れて遊びに行ったときの一こまだったのか。その写真を友人の某君が気に入ってくれたから、いままで何万枚の写真を撮ったなかでも、例えば個展やグループ展に出した写真と同様に、そういう写真があることを覚えている中の一枚になっている。多分、某君はその写真のことなど覚えていないのだろう。
 こんな、某君のエピソードや村上春樹の小説や、それ以外にも小田原のこの公園にまつわるエピソードをいくつか自分として持っていて、そういう個である私が、いまは死んでしまった象のウメ子の象舎がまだそのままそこに残っているのを見つけて、近づいてみたら象が歩き回っていた楕円形の遊び場のコンクリートはひび割れていて雑草が生えている。そういうことに気付いたら、その雑草は悲しみを誘うとかでは全くなくて、しかし意識的に思い出したわけでもないけれど、そういうエピソードに基づいて私はこの場所に思いいれができている(この場所は「他人」ではなくて「知り合い」である)から、悲しみでないにしてもなんだか高揚して、ここでは何枚も写真を撮った。
 それなのにピントがあまりちゃんと合ってなくてがっかりした。この駒も後ピンです。という写真技術の失敗はともかく、そういう撮影者の思いいれで撮った写真なのだが、ご覧のとおり、そんな解説を聞かされるのは多分迷惑であって、同じようにここに何かのエピソードを持っている人にとってはもしかしたらこの写真は何かの力があるだろうが、多分、それ以外の方にはどうってことないのではないか。
 そういう写真をタイプBとします。


 次の写真は、何かの建物があったはずの場所が更地になっていて、そこにたんぽぽか何かが咲いている。たぶんこの場所はすぐに新しい何かの施設ができるか、それともなければ駐車場になるか、いずれにせよ放っておかれることはないわけで、来年の桜のときにはこんな風に入れないかもしれない。その場所に近所のおじさんが三脚を立てて、写真を撮っている。ぶれないように、私はこの空き地を囲む杭の上にカメラを置いてその様子を撮った。おじさんの撮影はすぐに終わってしまい。彼は立ち去る。こういうのが写真的「出会い」かもしれず、こんな場面よりもっと極上の「良い写真」の法則があって、それにちゃんとのっとることができれば、例えば背景のこの建物も桜並木だったらねえ、とか、左側の桜がもっとちゃんと入っていたらねえ、とか、もうちょっとカメラの位置が高かったらねえ、とか、おじさんとの距離もそう少し縮めたいねえ、とかができれば一般的写真趣味からすると評価してもらえるかもしれない。所謂一般的基準の写真的決定的瞬間に少しは近い。で、この写真ではなくてもいいけど、そういう決定的瞬間写真をタイプCとします。


 次はお堀に映った桜。ほかにも何人かの人が撮っていました。誰もが撮る、誰もが、わっ!きれいじゃん、と思うところにその通りにカメラを向けた(とはいえ、ちょっと写真が緑に染まっていたので(お堀の水の色?)フォトショップで直してはいます)。ということでこれは多分昨日の夜にここを歩いた人の不特定多数の人の携帯電話カメラや、コンデジや、DSLRやを使って、カードに記録されている類の写真。これをタイプDとします。

 以上タイプAからDにタイプを分けてみて、さて何をしようというわけではないのでした。ちゃんちゃん。THE END。強いて言うと、例えばこんな風に切り口を置いて、写真について考えてみようかな、と思ったということです。あるいはAかDか、はたまたやっぱりCか、少なくともBではないよな、などと自分のいまの写真へのスタンスを考察するのでありました。
 皆さんはいかが思うでしょうか?