強雨の一日 


 雨、それも豪雨である。それでも午前には亞林さんと叡山電車で岩倉まで行き、実相院の床緑を見物してくる。傘は持っていたもののあまりの雨のためびしょ濡れになるのが目に見えていたため、岩倉駅近くのコンビニでビニールのレインポンチョを購入する。一旦、実相院に入ってしまえば雨に光る新緑や、ごおごおとなる林の音など、そしてそこに混じる蛙の声(モリアオガエルなのかな?)など、過ぎ行く時間に起きる変化をじっと楽しめる。

 昼、一乗寺のインキョカフェでTとNさんと亞林さんと私の4名で昼食。食べ終わり、四人がそれぞれの次の予定にあわせて店の前でふっと四方に散ったのが印象に残る。私はその足で近くのケーキ店「むしやしない」に行き、お見舞いの品を買い、それを持って地下鉄丸太町近くの病院までEさんのお見舞いに行く。京都に単身赴任中で、ご自宅が茅ヶ崎の私の家の近所にあるEさんが盲腸の手術をして入院中のため。小一時間、談話室のようなところで話し込む。手術明けなのに長居してしまって良かったのだろうか?

 そこから豪雨続く中、京都市役所前まで歩いてしまう。靴に雨がしみる。途中、ブックカフェ「月と六ペンス」に寄ろうと思ったが定休日でやっていなかった。

 上の写真は病院に向かうバスの中から。下の写真はどこかの店のショーウィンドウに漫画の壁紙みたいなのがあったので面白くて撮っておきました。



 昨日参加した写真ワークショップメタセコイアでとあるメンバーの写真を見ていて思ったことなのだが、自分の暮らしの中に常にカメラがあり、それを記録していくような行為って、それを見る方はそこの何に面白さを感じるのだろうか?またそこに面白さを感じてもらうことの重要性ってあるのか?みたいなことだった。例えば、私は休日に家から外に出ると所謂街撮りとかストリートスナップいうような撮影を(いやいや本当はこのあたりは街とかストリートっていうよりも住宅地と田園地帯だったりなのですが・・・)、もうマンションの玄関から出るときから開始するわけだが(流石に通勤、特に出勤のときは無理ですが)、ではこうしてPCに向かっている目の前のぐちゃぐちゃと散らかった机の上や、洗濯物が干してある雨の日の室内や、食事の場面や、そういう暮らしにべったりのところはほとんど撮らない。いや、子供が小さいときには、こと子供に関しては結構そういうの撮っていたのですが、風呂上りにおどけているところとか、家の中できゃあきゃあ踊っているところとか。いまは少なくとも自分の暮らしのそこここをさらけ出すような撮影なんかしていない。
 ところで、そこまで暮らしにべったりの、さらけ出し写真ではないにしても、きわめてプライベートな家族とか友達とか恋人とかと写真家との関係を写した写真というのを見ていて、面白いと感じるものとそうでないものとの差は何なのだろうか?

 誰かとプライベートな話をしていて、最近こういうことがあったとかこういう風に思ったとか、何かのエピソードを聞かされるそのとき、そこに興味を持つ場合、
1;その相手と自分との関係が、どれだけ親密であるかによっては、普通は面白くないようなことでも面白かったり感情移入して同感したりする。それはもう他人ではなくて友人か恋人か家族か、何らかの関係が出来ているから、ということはそこに広義の愛情が生じているので、相互に相手のことを思いやるような気持ちが生じているので、話は生き生きとして当然当事者の一員みたいな感じで放っておけない。
2;では1のような「他人ではない」という親密さがなくて、それでも誰かのプライベートなエピソードを聞いて面白いのはどういうときか?そこに何か惹き付けられる物語みたいなことがあって感情を揺すぶられる話であるとき。
3;親密ではない誰かの、しかも2みたいな物語の特殊性もない話で、しかも聞いていて面白い話ってあるだろうか?それってもしかしたら徹底的に普遍的に当たり前すぎることに肉薄していて、全く同じエピソードではなくても、ああ、そういうことなら私にもこんなことがあったよ、あるあるそういうこと、みたいなことで、面白い話があるかもしれない
1はともかく、3で聞き手を惹き付けるには、それが当たり前の話ゆえに、その語り口の軽妙さみたいな、聞き手をひきつける話し方が重要かもしれない。

 暮らしに密着した写真を撮って、そこに特殊な喜怒哀楽を刺激するような出来事が写ってなくて、でも見るものを惹き付ける写真を、上記の3のような話と置き換えて考えると、意外と写真のテクニック(語り口の軽妙さに相当)=一見当たり前の暮らしを写しているようでいて写るものを取捨選択するような戦略的なこと?と、そこから見るものの記憶に訴えるような私(=撮影者)写真から私(=鑑賞者)写真への転化を促す被写体の普遍のもたらす力強さ、が必要ってことかもしれない。
 それと、誰かの話を聞くときに、それがハッピィな結末な話ではなくて、他の感情、怒りとかやるせなさとか、寂しさとか悲しさとか、そう言う感情を呼び覚まされても、それが上記の1だと他人ではないから放っておけないが、他人事だと無責任な範囲の感情移入が出来てしまう。鑑賞者は勝手だから自分に影響が及ばない範囲でそういう物語を見て無責任な感情を呼び起こされることが好きかもしれない。
 なんて考えると、暮らしに密着した写真で他人である鑑賞者を動かす力を持つ写真を作るのは実は相当難しいことなんだろうなと思った。