鵠沼を歩く


 須田塾の亞林さんMさんIさんと私の四名、昼に藤沢駅で落ち合い、古久屋で昼食を取った後に鵠沼海岸まで写真を撮りつつ歩く。予想より陽射しが強く、帽子を忘れたことが悔やまれる。Mさんローライフレックス、Iさんハッセル。最近ときどき、またフイルムを使おうかなと思うことがあり、皆さんが撮影しているところを見ているとそういう気持ちがまた強くなる。もう一押しされると、一年半ぶりくらいで「フイルムの季節」になるかもしれないな。そういえば、カメラを変えて気分を変えるというのをずーっと繰り返している。でもそうなるかどうかは判らないな。

 デジカメで撮る枚数を少し制限しないとおかしな事になっている感じもする。多くの写真家の方々は、とにかく沢山撮ることが大前提である、とおっしゃっている。デジカメを使えば、そのお達しに簡単に従うことが出来る。でも、この「とにかく沢山撮る」と言うことは、フイルムを買ってお金を使い、現像するという手間も必要で、かつ写真を作るのに時間がかかってまた暗室に入って写真を焼くというところにも技術が必要で、そしてもちろん現像や引き伸ばしにも物質的な投資が必要、というような「背景」の中で、何はともあれ、それでも沢山撮れ!ということであって、何か精神的なところでの効果までを含めての言葉なのだったのではないか?というか、そういう面も少なからずあったのでは?
 一こまが重要で、それが前提でもたくさん撮れ!と。
 デジカメになって「沢山撮る」という部分だけを実践するように、私はこの5月には4400枚の写真を撮っていた。途中に休暇があったとは言え、平日の仕事中には撮れないわけで、フイルムを使っていたころに一番撮ったときが、私の場合は40本(1440枚?)だったから、3倍である。もちろん世の中にはこのまた十倍とかそれ以上を撮っているアマチュアカメラマンも大勢いるであろう。
 しかし!フイルム時代に撮った写真は自分でもそれぞれの駒を、いまよりじっくりと、寝転がってネガを透かせてみたりして、「愛でていた」と思う。自己満足だったりしても自分にとって「大事な」駒がぽつぽつとあって、引き伸ばしのときにああだこうだと試したりもして、一こまあたりにかけていた時間が長かった。
 いま、デジカメになって枚数が伸びて、でも自分の撮った写真の中で特に気に入る駒とか大事な駒とかが少ないように思うのは、
・いくらでも撮れる故に、適当になってしまい、いい写真が撮れる確率が減る
というよく言われていることもあるのだろうが、
・撮ってすぐに今撮った写真を確認する作業が撮影のリズムを狂わしていい写真が撮れる確率が減る
とか
・写真を撮って、撮った結果を確認するまでの待つ時間あるいは作業時間が短くなり、自分で自分の写真の良さを発見できない
とかも考えられるし、でも、今日、皆と話しながら私が思っていたのは、
・そもそも一こまあたりにかけている時間が短すぎて「撮り捨てて」いるに過ぎなくなっている
みたいなことはないか?ということなのだ。自分に許される写真のための時間に相応しい枚数で写真を作らないと撮りすぎはかえってよくない。。。
 とか、ちらっと思った今日でした。ほんと「ちらっと」だけです。

 みんなで鵠沼海岸まで歩き、古本+ジャズ+珈琲の「余白や」にお邪魔する。そこで3.5時間、写真にまつわる企てなどを妄想したりして至福の時間を過ごす。
 その後、藤沢で飲んで、ラーメンを食べて、夜遅くに帰宅。初夏に相応しい、楽しい土曜日だった。