雨の京都へ


 数日のあいだ、京都へ行くことにする。毎夏、下鴨神社古本まつりの頃になると誘われる。五月に京都に来たときにも雨にたたられたが、今回も雨の京都入りとなる。昨年、亞林さんと六道珍皇寺の六道参りに行った。そのときは初日で鐘をつく人の列が寺から外に出て、さらに角を曲がり、寺の北側の道路に延々と続いており、境内も多くの人が詰め掛けていた。京都に根付く伝統の深さというのか強さというのか、私の暮らしている環境とは別世界であって、同じ日本人なのに、違う国をのぞき見ているような驚きがあった。というのは、さすがにちょとおおげさかな・・・。
 そこで、今年も昨年のような場面を期待して、夜の六道参りに行ってみた。雨で、最終日で、昨年の様子とはだいぶ違う。鐘の列も十数人になったかと思うとふと途切れたりする。寺の入り口の暗いテント(もうここに並んでいた店は閉じてしまったのだろう)の下で、強い雨足の時間をやりすごす。地獄図絵も雨のためかしまわれている。昨年は孫を抱いたおじいちゃんが、怖い絵を見せながら地獄について説明していた。

 世の中それぞれの個人の行動の決定って、ある意味、意識的とかいいつつもそれを決定する要因のほとんどが偶然の(人とは限らず、五感(あるいは六感)で感じるすべての偶然の)出会いの積み重ね、無意識の積み重ね、その頂点にケーキのてっぺんのイチゴみたいに「意識的みたいな」ことが乗っかって、あたかも自ら決定したようにできているというか、人がそう感じるようになっているのではないか。そうでないと人のアイデンティティみたいなことが破壊されて、知識や記憶を持てる生命としての存続ができないのではないか。

 なんてくそまじめっぽく書いたけれど、思い描いたことと、「偶然に」そうはならないことの差分が、その違いがあるから、すべてがなんというかな能動的に発展的に動いていくのだと思ったりする。昨年と同じような六道珍皇寺のにぎわいを求めて(思い描いて)、だけど偶然に雨になったり、思い至らなかったけど実は最終日であったりした結果の閑散とした感じ、その求めたことと実際の差分があって、それを否定せずにいることが重要なのだ、きっと。受動的であることの強さっていうのは柔らかさみたいなことで、なるほど柔道とはそういう相手の力を利用した受け身からの技だからこそその柔らかさが基本であるからそういう名前になったのか・・・何も調べずに書いているので全くの間違いかもしれませんが。

 写真を作るときの態度として、思い描いた写像を強引に作る、今道子とか森村泰昌とか、あるいはリーボビッツとか、そういうのは偶然性への価値の置き方から分類すると、ノーファインダーのストリートスナップトイカメラの何が写るか制御不能なチープさへの期待という偶然への依存性の高さと比較すると、それを排除することが高いように思う。ところが実際には前者の作品作りでも、思い描いた写像(絵コンテで準備されるような)を作っていくなかでも、その通りには行かない障壁みたいなことがいくつも出てきて、そこでの偶然的な選択の結果も加わっていく結果が作品なのだろうからそう簡単ではないとも思うが、でも最初から偶然に寛容なのは後者のようなストリートスナップ等であろう。として、いいのか自信はないけど。

 さて、以前パリに行ったとき、ベルサイユ宮殿の西洋庭園やパリの街並みに接したときに、最初はその整然とした人が制御して作っているという力強さに魅せられたが、すぐにそういうのって疲れるなあと思ってしまった。一方、日本に庭園は遠景を借景にするとか、四季に姿を変える木々の移ろいを前提にするとか、もっと偶然を制御しないことを前提としている。写真で言えば、後者のストリートスナップ的である。いやこれは本末転倒で、庭も一例であり、そのほかのことや態度もきっと西欧に比べて受け身で偶然性を容認する、あるいは喜んだり楽しんだりするようなところがあるのではないか。後発の写真という表現においても偶然への立ち位置に多様性があるように、すべてにおいて立ち位置がたくさんあって、もしかしたら、もしかしたら、日本人の好みというか文化というか、そういうのって偶然への許容度が広い位置かな、なんて考えたりする。上記の今道子森村泰昌というのは日本人だけど、日本写真の歴史の中の特徴といえば、やはり日本独自のコンポラとでもいうべきあれブレぼけも含んだ私写真であって、要するに上記のストリートスナップを含む表現であるのだろうから(いや、これもちゃんと学んだわけではないから自信はないのだけど・・・)。

 というわけで、思い描いていた様子とは違う六道参りはそれでも、なんというのかな、面白いなんて表現はいけないのだろうから、旅行者としてそこに行ってよかった。そして五条通の陶器市でふと目に付いたぐい飲みなんかを、酒など飲めない体質なのに、買ったのでした。偶然目に付いたから!


松原通りの洋服屋さんでしょうか?昔懐かしい建物と洋服屋さんって、小川洋子の短編の舞台のような・・・

 夜、一乗寺恵文社のギャラリーで偶然行きあたったSUZUKI MAI 個展(油絵)を見る。「具体的に描かれていることとは関係ない観賞者の個人的なことを引き出せたらいい」みたいなことが書いてあって、共感を覚える。山の絵や、ビル屋上のタンクの絵が、そもそもそういう対象の種類からすると全然違う絵が並列しているところからして、一筋縄ではない意図があって、いいと思う。