長い日曜日


 昨日のブログに、日常スナップで撮る被写体が決まっていて、そういうものにカメラを向けるときの気分の高揚が減ってしまっていると書いた。そういうものの例としては・・・
・カバーが掛かった自家用車
・舗道の割れ目から生えてきた植物とか
・生い茂ってきた雑草
・昭和のころの三角屋根の住宅や平屋の市営住宅風の住宅
・街に貼られたポスターやちらしの人や動物がそこに貼られているあいだにやぶけたり水を吸ったりして「新品ではなくなっている」状態
と挙げてみた。
 自分で書いて、そうするとそれをきっかけにいろいろとまた考えることになるわけで、これらの被写体というのは、全てその状態が強固ではない。自家用車にかぶせられたカバーは風をはらんで揺れたり、風がなくても以前にかぶせられた状況と次にかぶせられる状況は、微妙に違う。もちろん天気によっても、あるいは同じ日でもその時刻によってカバーを被った自家用車に落ちている影は違うしね。でも、そんなことを言い出したら、別にカバーが被っていない車だって、落ちる影は刻一刻変化するわけで、だからやっぱり「風をはらんで揺れる」とか「前回と次回と今回は異なる」というあたりの変化の際立ち方がいいのかな。こう書いていると、自分がそこにカメラを向けるその理由すらよくわからないということであって、好きの理由なんか、カバーに被った車に限らず、いちいち自分で把握なんかしてなくて感覚的に好きなのだ、ということがよくわかる。
 昭和のころの古い家は「いつなくなってもおかしくない」という、せめて画像として記録し保存しよう、という気持ちなのだろうか?それとも、そこに何か懐かしさ、あるいは懐かしさに伴う愛おしさを感じているからなのだろうか?
 ちょっと考えただけで矛盾だらけで、上に書いたように天気や刻々と変化する影によって、何事も常に変化しているのだから、状態が強固でないのは万物に対し常態として常態は強固でない。それでもこういう風に被写体の好みが生じているのは、それ以外の光景は状態が強固であると自分がだまされているということもあるのかな。
 いやいや、そんなことより以前に、被写体の作る光景が写真的かどうか?という前段があるのだろうが、この写真的というのも個人によっていて・・・。前段などと書いたが、いちいち順番があるわけでもなく渾然一体としているに違いない。
 常態が強固ではない=変化していく=移ろいやすい=不安定みたいに単語をつなぐと、やっぱりその移ろう速度の遅さ加減にどこまで敏感か?ということがあるのかな?定点観測と言う手法は、遅すぎを埋め合わす対抗的態度なのかもしれない。いずれにしても、日常スナップ写真の根底のどこかには、移ろうものを記録するという意志があって、それは旧決定的瞬間に対する新決定的瞬間が、より潜行した複雑な天邪鬼な視点に置かれた結果に過ぎず、なんだ、写真の本質である記録性は変えようがないのだな。

 などとつらつらと書いたようなことをずっと考えながら、今朝は5時に目が覚めてしまったので、6時から8時まで茅ヶ崎の駅の周りをぐるりと一周散歩してきました。
 その日の体調にもよるのか、帰宅して写真を見てみたら、ほとんどの写真が右下がりに1〜2度傾いてしまっていた。朝日を受けた商店とか住宅とかの写真がほとんどだったので、ちゃんとバーティカルとホライズンは出ていて欲しいので、失敗ってことですね。

 昨日、子供にとって原っぱが重要だ、みたいなことを書いたけど、これもずっとそこにあるものでなく、街が変化していく中でその場所や中身は変わっても、守られていない(例えば市の管理する公園としてそこがなくなる可能性は低いというようなことでなくたまたま取り壊された建物の跡地にできたような)場所が子供にとっては早速に魅力的な遊び場になって、それがいつかなくなる・・・なくなって欲しくないしなくなるとは思っていないけど結果としてなくなってしまう、ということに直面するのが重要と思ったのかな。でもこう書くとなんだか教育的でつまらない。

 私が小学生のころに父が勤めていた総合病院のそこここに植えてあった木々のうち、たぶん杉科の常緑樹みたいなの・・・ヒノキかな?の枝の剪定があって、それを植木屋さんが、敷地の片隅に掘った、子供から見ると大きな穴に捨てた。最後は埋められるか燃やされるかしたのだろうが、しばらく穴に大きな枝がたくさん放り込まれていて、その穴の中が枝や葉が複雑に絡み合いつつも、子供が通れる立体迷路みたいな按配で、しかも一番底にはちょっとした小部屋のような空間ができていた。晴れた日には木洩れ日みたいにまだらの光が穴の中にできていた。そこは早速に子供たちの「基地」になった。ほんの数日の間のことだけど、あれは「至福の」基地で、居心地が良くて、学校が終わると、そこでおしゃべりをしたり、もしかしたら昼寝をしたりも、していた。

 それがなくなっても、また次の何かが発見されて新しい遊びが生まれていく、そういう移ろう場の一つとして原っぱは重要なのかもしれないな。
 そういえば小学校六年のときの同級生だったA木君は、土管に隠れて空を見たときにUFOを目撃したと言ってました。

 写真は上も下も今朝の散歩にて。



 そういえば小学生のころに名探偵カッレ君シリーズというのが好きだったことなどをこんなことを書いているうちに思い出した。中身は何も覚えていないな・・・

名探偵カッレくん (岩波少年文庫)

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さて、茅ヶ崎の散歩から戻ったあとに二時間弱の昼寝。午後2時過ぎに再びカメラを持って出かける。JRを乗り継いで鎌倉へ。鎌倉駅から八幡宮へ。八幡宮から再び鎌倉駅前を通りそのまま由比ガ浜へ。既に九月で、もう4時で、由比ガ浜も晩夏の寂しさが漂っているのであろうか?犬の散歩の人がいる程度で、あとはもうすっかり秋の装いなのだろうか?
 と思っていたら、海の家こそ解体工事中ではあったが、まだまだパラソルを立てて海水浴に遊び家族ずれや若い連中が沢山。それでも西の方へと歩いて行くと、だんだんと人の数が少なくなっていくのだった。
 ジュルネで遅い昼食(?)、納豆アボガド丼を食べてから、帰る。