夜の花


 一週間ほど前のこと。暮れ時、電車の中からふと空を見上げたら、行き過ぎる木々の向こうに月が見えて、あー三日月だなと思った。しばらくして、新宿駅近くで、今度はビル群の向こうに月が見えて、その月は上弦の月だった。もう一度よく見たが、月は確実に上弦の月だった。三日月に見えたのは「見間違い」ということなのだが、そんな風に思うより、急に月の形が変わる不思議を体験した、と思った方が面白いのだろう。

 先日、NHKのクローズアップ現代電子書籍の特集を放送していたのでぼんやりと見ていた。電子書籍になればロングテールの尻尾の尻尾まで、廃刊にならずにいつでも買える可能性が増えるのだろうし、当然、部屋の中に本が溢れるなんてこともなくなるだろうし、いいと思います。
 一方で、一度読んだ本の装丁(五感で感じる本そのものの存在)を頼りに、もう一度その本を読まずとも、物語や、あるいはその本を読んでいたときの自分の記憶なんかを楽しむというようなことは出来なくなるのだろうから、本質だけがあらわになってそれで充分と言えば充分だけど、またぞろ何かが失われるのは確かで、それは大したことではないかもしれないし、大したことかもしれない。

 むかしむかし、フイルムの8mmカメラやスライドのフイルムで撮った運動会やらの家族イベントやらの動画や写真を見るときには、部屋を暗くして、映写機を準備して、みんなを集めて、といった、準備の手順があって、それゆえにその映写することというのは特別な時間になっていたが、パソコンで写真や動画を見るのはもうどってことない。広い意味で言えば祭りだったことが日常になっているようなものだろう。この「祭りの準備」期間が妄想や画策を呼んでいたし、コミュニケーションの原点がそこらじゅうにあったってことかもしれない。
 紙媒体の本を読むことと電子書籍を読むことには、こういう動画や写真の鑑賞形態の変化ほどの変化はないかもしれないようにも思うのだが、いやそんな甘いもんじゃないって気もする。

 現代の数値化評価できる利便性へのまい進のためには、心にもたらしていた測ることが出来ない不明瞭な作用は無視されることが多いけど、ときにそれは利便性の向上の振りをしているだけで、ただ、皆の行動における道具の標準が変化しただけで、人の幸せや不幸せの度合は全く変わっていないことが多いのではないだろうか。

 コンパクトデジカメ、手持ち、TVモードでシャッター速度0.5秒、手振れ補正機能ON、-2/3段補正、ISO500、なんて設定のもとで連射モードで四、五枚撮っておけば、何枚かはちゃんとぶれずに写っている。でも思うのは、フイルムのころの夜景はぶれていても写真としての魅力に富んでいるものが多かったが、デジカメになってからぶれた夜景は(フイルムほどは)面白くならないのではないか、ということ。もしかしたら、夜の光(街灯とか)がその周りだけ白とびしてしまうコンパクトなデジカメだと、フイルム時代の夜写真の「味」が引き出せないのかもしれない。