大阪 午後は雨


 昨日ナダール大阪で見た尾黒久美展、あとから思い返してみて、なんだか宗教画を見たような気分であったと思い当たった。その宗教に属していて、その宗教のことを知識として把握している人が宗教画を見れば、それがどういう物語(でいいのか?)のどういう場面を描いているかが判り、するとその物語を下敷きにするようにしてその宗教画を鑑賞するだろうから、何も知らない人と比べれば鑑賞のレベルが高いようで、でももしかしたら鑑賞のための手綱に縛られているかもしれない。尾黒作品は「その宗教を知らない人が出会った宗教画」のような感じだった。そこに何かの物語や、もしかしたら隠喩が秘められている、そういう「気配」がする。気配は感じられるものの、具体的には何も知らないから気配だけで具体性を伴わない。だからなんだか放り投げられて相手にされないようなところに鑑賞者は置かれる。それでも、そのドラマチックな瞬間を演出したかもしれない写真に勇気を持って向き合っていると、もしかしたら何かが出てくるかもしれない。それで写真を見ていくのだが、結局は相手にされていない感が捨てきれず、怖い。しかし「怖い」というのを乗り越えることが本当は仕掛けてくる目的かもしれない。先月、横浜ジャズで藤井郷子MADOグループの演奏を聞いていたときに、鹿爪らしい顔をして音楽を「理解」しようとしている大人達を尻目に、リズムに乗って体を動かしながら音楽に浸っているような子供達がいた。そういう子供達みたいな鑑賞眼に戻りなさいよ、そうすれば、そんな強面の顔で挑戦するように見なくても、あるいは写真に秘められた物語なんかを読み解こうととはしなくても、写真を楽しめるはずですよ、と言われているような気もする。そもそも宗教画のようだけど、そこに秘められた物語や隠喩は実は宗教ではないこの写真にはないのかもしれない。ないのを承知で罠のようにそういう風を装っているのかもしれない。それが仕掛けなのか。

 帰りの新幹線こだま号は行き以上に長い時間を要したように感じてかなり疲れた。その新幹線の中ではcalo bookshopで購入した西尾勝彦著のほとんど手作りの(タイトルは万年筆による自筆で、ホチキス留め)私家版詩集「大きな鯨」を読んだ。円くてどこにも角がない安心に包まれるような感じでした。共感が丸くなって包んでくる。口の中でサクマドロップスを舐めていて、噛まないように噛まないように舐めていて、最後の最後に小さくなったドロップスが、一度も割れないまま消えて行き、甘さだけが舌に残っているような愛おしさ。あるいは、雨の暗い町にしょぼくれて立っているときに目の前を通リすぎて行ったほどほどに混んだ路面電車あるいはバスの中の人たちが、思い思いの色の服を着て、思い思いに本を読んだりただ立っていたり、友達と話していたりしているのが見える。そういう中にこんな雨の寒い町から早く加わりたいと思うような人恋しさ。
 西尾勝彦氏は奈良の方らしい。奈良ってずーっと大学三年のときに日帰りで明日香村に行って以来一度も行ったことがないなあ。。。

茅ヶ崎の自宅に帰ってから、新大阪駅の地下街で買ってきた串揚げをソースに何度も付けながら食べました。



 どこかの家の前に置かれていた子供用自転車の、そのハンドルにくっついていたカプセルの中のミッキーマウス