晴れ 記憶について


 朝、8時にデジタル一眼レフカメラをぶら下げて散歩。一時間半ほど近所の田園地帯とか、高速道路の工事現場あたりを歩く。歩きながら「大事にしている記憶」という言い方があるけど、個人が主語になって意識的に記憶を制御したり扱ったりは出来ないではないか?とか考えている。つまり、大事にしている記憶、という言い回しをするけれど、実際にはそういうことは出来ないのではないか。(無意識的に?)いつまでもクリアに覚えていたり、よく思い出す記憶が出来上がってしまっていて、そういう記憶を「大事にしている」と表現するのかもしれないが、「している」わけでなくて単に「よく思い出す」(それも主体的に思い出すという行為を制御できるわけではない)だけなのではないか。そして、その記憶によって起こされる感情が、喜怒哀楽で言えば「喜」や「楽」に属すれば、それを「大事にしている記憶」と言うのだろうか。
 とかなんとか考えているのは、昨日のブログに「学生時代に宇和島の海辺の突堤キャンディーズを歌った」という思い出のことを書いたからで、今日になって思ったのは、一緒にいたKやMは、私が「大事にしている」その記憶を、たぶん「忘れてしまったり」「そういえばそんなことあったような気もするね」くらいの「大事にしていない」記憶になっているのに違いないと思うからだ。そして、KやMの「大事にしている記憶」の中の一つか二つには私も登場しているものがあって、だけどそれは私にとってはすでに「忘れてしまった」ことである確率が高いと思ったのだ。
「大事にしている」記憶は、一般的に言われる晴れ舞台、結婚式とか子供が産まれた日とか入社式とか、合格発表とか初めてのデートの日とか、そういうのと一致する場合もあるだろうけれど、そんなこととはおよそ関係のない、日常の断片みたいなことであるのにものすごく詳細に覚えているなんてこともあると思う。そういう方の記憶が何故そこまで濃いものになったのかは、不思議なことだとは思うが、忘れてしまった記憶になったら忘れてしまったゆえにもう悔しくもなんともなくてその出来事があったこと自体わからなくなってしまうわけだから、そう考えると「日常の断片であるのに濃い記憶」こそが何か重要なことなのだろうと思ったりする。

 家の近くのバス通りを渡って、ひょいと路地に入ると、上の写真のように新緑がさかんに競っているような塀に囲まれていない庭がある。ここだけ見ると驚くが、写真で切り取っているわけで、すぐ手前とか奥にはありふれた塀やアパートや住宅があるのだがここだけみると植物が美しい。朝の光は気持ちがいい。特に昨日が雨だったからか今日は余計に清々しい。歩いていると、モンシロチョウが飛んでいる。ツバメも川の上を滑空している。どこか上空から雲雀のせわしない声がずっといつまでも聞こえる。
 川沿いの道や川の中州には菜の花が満開。足元を見ればタンポポハコベホトケノザが咲いている。葱坊主はかわいらしく薄緑。桜が散るのを合図にしたかのように一斉に春が動き出した。

 帰宅後、YOUTUBEキャンディーズの映像をぼんやりと見たりする。

 午後2時過ぎに家族の某と、海の方にあるCORNER SHOPというベトナム軽食のカフェ(でいいのか?)に行き、バインミーとフォーと生春巻き。アルコール0.5%のバクラーを飲む。そのあとビーンズ香房に行き、ブラジルの豆を200g、焙煎し粉にしてもらう。それを待つ間にコーヒーを飲む。ケーキも食べる。雑誌も読む。西日が差し込んで、引き戸のガラス窓の格子や木製の椅子の影が床に線を描いている。
 帰宅後、5時ころ、今度は自転車で近所をふらふらしながらコンデジで何枚か写真を撮る。それが下の桜やショベルカーのある住宅の写真であります。
 近所の桜って、私の場合はこの坂道にある誰かの家の庭にある八重桜と、自宅から道をはさんだ畑にある濃いピンクの花を付ける桜(?)と、やはり別の住宅街のどなたかの庭先から枝を路地に張り出したソメイヨシノと、三本くらいがすぐに浮かぶ。自分の日常にある特別に景勝地でもなんでもない、お隣のAさんみたいな桜、出前を取る近所の中華屋みたいな近所の桜、そういう桜が身近なように、そうか、残っているありふれた記憶とはそんな桜みたいなものなのかもしれない。