くもり 記憶について(続き)


 何故だかわからないけれど、電車の車窓から歩いている人を撮ったら、まるで首のない人のように写ったのでぞっとした。ちょうど内田百輭の「冥途」を読んでいたので、余計に怖かった。よく小説の中に暗喩や暗示や、そういうことのためのテクニックとして夢の場面が描かれるが、実際に生きていて、そう都合よく起きているときの出来事と連動した夢なんか見ない。だからそういう夢を利用するという小説のテクニック(みたいなこと)が使われると、嘘くさく感じて白けてしまう。しかし「冥途」のように、夢(?なのか・・・)だけを、そこに説明や物語としての脈絡を着飾らずに、それだけを不可解なまま提示されると、これはなかなか怖い。いつも黄昏時である。

 前の日のブログに「大事にしている記憶」というが、記憶を「大事にする」ということなんかできないのではないか?みたいなことを書いたが、後日になって、いや、「大事にする」こともできるかもしれないな、とも思ったり・・・
 記憶を引き出しにしまっているようなことをイメージして考える・・・なんてありふれた思考回路を辿ること自体に落とし穴があるような気もするが、誰かに例えば「小学生のころに楽しかった思い出はなんですか?」みたいに記憶を引き出してくることを要望されたとすると、なにか記憶を引っ張り出そうと「意識的」に脳は活動する。そして、その要望にこたえる形で、そういう引き出しに仕舞われた記憶の中から何かを引っ張り出してくる。そういうことも出来るのだから、この場合は、ここで引っ張り出されるような個にとって代表的に収拾収蔵されているような記憶は「大事にしていた」ということになるのか。
 とか・・・
 しかし前日のブログに書いたことは、この次元に至る前のフェーズ(みたいなこと)の視点で、では、どうしてその記憶が引き出しに仕舞われる記憶になりえたかというフェーズに立つと、そこはやはり主体的にそうしている(今日のこの出来事は大事にすることに決めたから引き出しに入れておこうと主体的に決めている)という感じではなくて、いつのまにかそこに入っている。だからやはり「大事にしている記憶」とは言えないようにも感じる。
 みたいな・・・
 バスや電車でぼんやりしているときに、こんなことも考えたりしている。