家にいた日


 夏の夕暮れどきに家の中にいて、こうしてパソコン作業をしたり、あるいは片付けをしたりしていると、だんだんと暗くなってきて、でもまだなんとか部屋の灯りを付けないでも済む、そういう時間。すでに部屋の中に散らかっているものとかはよく見えなくなって来ている。それでも窓の外に目をやればまだまだ明るくて、向こうの住宅街の家々がちゃんと見分けられる。
 随分むかし、まだ学生で二十代だったころに、同じような夏の夕暮れに部屋にいて、ジャクソン・ブラウンの二枚目のLPを流して聴いていたことがあった。部屋のの中にちらかっている、例えばだけど、さっき外出から帰ったあとに脱いだまままだ洗濯機のところに持って行ってない靴下とか、朝刊の新聞のちらしとか、若い男性向けのグラビア雑誌の表紙の・・・えーっと、例えば篠山さんが撮った木ノ内嬢とか、夏休みに少しは勉強しようと机の上に積んだけど一回もめくっていない機械力学の本とか、そういう暮らしの断片的なものが見えにくくなって来た部屋で、窓から外の景色だけは見えていた。いいねえ、と思った。夕暮れが日常のさまざまなしがらみを隠してくれて、ジャクソン・ブラウンのTHESE DAYSなんかが流れちゃってさ、ふむふむこれは夏の恩恵だよね、と思ったものだった。
 さっき、これを書き出した2011年7月18日の午後6時半、そのときもそんな時間で、自分でもあまり意識しないうちに、トム・ウェイツのol’55のメロディをつぶやくように鼻歌というほどにもならない断片だけど、反復していた。この曲は早朝のことを(徹夜明けの朝だっけ?)歌っている歌だったはずだけど。
 二十代のころに同じことを、友だちに手紙(携帯もPCもなかったし電話代は高かった)で伝えるとしたら、ここに書いて来たような書き方はしなかったと思う。
『夏の夕暮れが暮らしの断片をすっかり隠してくれたから、さあ、西海岸から届いた、女の子がウエストのサイズを気にしていることを歌った曲なんかを笑って聞きこうじゃないか。僕はこのにわか仕立ての自宅バーで、冷しておいたアールグレイティーを飲んでます。窓から見える雲がゆっくりと紅く染まってきたよ。誰かの照れ顔みたいだ。』
とかなんとか。そのころは、キャッチコピーとかがこんな風なキザッちい?めめっちい?メルヘンぽい?時代で、よくも悪くも日本の若者の多くは西海岸を向いていた。だけど、それにしても、こんな文章を書いていたヤツは気持ち悪い(いま風に言えば「きもい」)よねえ。一体全体どういう・・・自意識過剰の青年だったことだろう!
 だいたい、当時の70年代前半とかの、反体制とか反戦とかのムーブメントの中にあったように語られている日本のフォークソングが歌ってきたプロテストソングではなくLP収録曲の大半は実はラブソングで、その歌詞って、おいおい!と呆れるほどメルヘンチックだったりしている。恋人たちは空を見てあかとんぼの歌を歌ったり、たんぽぽの花を添えて涙を拭いたりしていたのだ。

 ところで「女の子がウエストのサイズを気にしていることを歌った曲」って本当にあるのだろうか?ジャクソンがそんなことを歌っている曲があるってどこかで読んだ、極めて曖昧な記憶があるのだけれど、全くもってひどい勘違いかもしれない。

 いやはや、何かを書こうと思ってこうしてブログを書き始めても、なんというか脱線につぐ脱線だな。最初、これを書き始めたときに書こうと思っていたのは、トム・ウェイツを口ずさんでいて、それに気が付いたら、むかし、同じような季節の同じような時間にジャクソン・ブラウンを聞いていたことを思い出したのだが、ところでそこから導き出せるのは、この季節の暮れ時には70年代のアメリカのSSWが似合うと感じるなにかが私の価値感みたいなところに出来ているのかもしれない、ということだけだったのだが。

 朝、4時半に起きた。行動予定としては、5時半まで、後半から女子サッカーワールドカップの決勝戦を見て、たぶん日本は負けて、それでもよくやったよね、と思い、それからカメラを持って大急ぎで茅ヶ崎海岸に行き、浜降祭の写真を撮るというものだった。が、日本は善戦し、運も味方し(でも線審は味方ではなかった気もするが)、延長からPKへともつれ込んだから、とうとう今年は浜降祭の撮影に行くことはあきらめた。日本の8番の選手はよく左サイドから猛スピードであそこへ駆け込んできたな。そのあとのボールの処理とキーパーの位置を見たアウトサイドでのシュートもお見事。PKの蹴り方もそうだしフリーキックも得意なようで、男で言えばまさに遠藤ヤット選手のようだった。
 それにしても好ゲームの上に勝利もものにして、オメデトウ!実は話したことはないが面識をある方のお嬢さんがレギュラーで出場していたのです。

 ひとしきりテレビを見てから、ではたまには部屋の片付けをするか・・・と、始めてみたら、フレッシュネスバーガーでコーヒーをかき混ぜるために置かれている、上の写真の木製の・・・これの名前はなんていうのかな?・・・木製の「これ」が何故か文庫本の山の間から出てきた。なんだ、やっぱり今日は家にいたほうがいいわけね。 

 そうは言っても、コーヒーくらい飲みに行こうかな、と思って、久しく行っていないカフェハッチに、今日はやっているのか確認してやっていたら行ってみようと電話をしたが店主のAさんは電話に出なかったから、不在なのかもしれない。Aさんに伝えたいことがちょっとあったのだが、今日はフレッシュネスバーガー占いにしたがって家にいよう。

 吉川忠英に「家に帰るのさ」と言う曲があったことを思い出した。家にいて。

 昨年来、ニセアカシア活動を始めたせいもあって、小さな写真集を買う機会があって、片付けをしたら何冊かそんなのが出てくる。まとめて一箇所にしまおうと思う。本棚にある分厚い写真集と一緒に並べると、お母さんパンダに誤って踏まれてしまった子パンダみたいに小さな写真集がくしゃっとなってしまいそうだから、本棚ではないところに片付けたいものだ。それで何が入っているのか忘れてしまっている、プラスチックのボックスを開けてみたら、げげ、そこから1980年代から90年代のころに出ていた月間写真雑誌「写楽」がどっさり入っていた。一番上に若い桃井かおりと若い山口百恵が表紙の二冊が並んでいて、写真や動画のリアリティ性が上がれば(簡単に言えば高画質になれば)、少なくともプラトニックな恋愛感情は時間を越えるわけか、と思ったりした。いや、一般論ですよ。私は桃井さんも山口さんも特段に好きなわけではない。森下愛子は好きだったけど。


 この写真はガラススライドドアが付いている本棚の、そのドアのガラスのあいだに挟んだ以前展示に使ったA3プリントに、ブラインドの影が映っているところを撮ってみたもの。ブラインドの影の方向からもわかるように、本当は縦の写真なんですね、これって。縦のままのが良かったのか・・・

クロージング・タイム<SHM-CD>

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