海外出張NY02


 23日の朝、ロングアイランドのグレイトネック駅近くのホテルの回りを30分ほど散歩。澄んだ空気と上ったばかりの朝日で、まだ開いていないショップのショーウインドウにカメラを向けると中と外の両方の風景が重なって写る。知らない街で、その街でいわゆる街撮りをすることの許容度がどのくらい住民に共通認識されているかよく判らないし、持っているのは光学ファインダーのないコンパクトデジカメで明るい朝日を浴びてLCDの像はよく見えないし、なんか撮影がコソコソしかできない。ノーファインダー撮影ばかり。だから、いい写真がほとんどありませんでした。

 湿度低くさわやか。緑(街路樹や高速道路わきのグリーンベルト等々)が日本と違って見えるのはなぜなのか?と帰国するために空港に向かう車の中で、同僚の某君と話す。日本の緑は総じて「ふかみどり」なのに対して、NYの緑はもっと明るい葉の色のものも多くて、緑のバリエーションが豊富ということなのではないかと一応の結論。そういういろんな緑の混じっているブッシュを撮りたいけど、車はすべるように走り続け、すんなりと空港に到着したのだった。

 NYの今のこのさわやかさが「晩夏」の何かを漂わせているのか、NYの「真夏」を知らないからわからない。いつもこうなのか?晩夏だからこうなのか?日本と違って蝉の声が全然聞こえない。

 NYとは関係ないけど、晩夏ということで。
 大学3年か4年の夏休み、丘の上にあった友人Jの家に遊びに行きレコードを聴いたり議論をしたり歌を歌ったり、深夜まで遊んで過ごした、そんな日がひと夏に何日かあった。
 ふと騒ぎから抜け出したくなり外に出ると、門灯の明かりの中にノコギリクワガタがいて、小学生のころはスポーツカーのようにかっこよく思えてぜひとも捕まえたかったこの虫を、結局は一度も捕まえられなかったなあなどと思い出しながらしげしげと見つめた。視線を丘の上から南へ転じると、相模湾に光を反射させた丸い月が煌々と照り、月の回りを漂う雲が流れていくのが見える。街から吹いてくる風は、涼しくて、真昼間には変わらず真夏のような暑さなのでわからない晩夏が、そこに哀しげに控えていることを知る。部屋からスティーブ・ミラー・バンドのフライ・ライク・アン・イーグルが聞こえてくる。その中に友達の笑い声が混じっている。Jくんの笑い方は特徴があって、I嬢の笑う声は高くすずやかで、そんなふうにひとりひとりの笑い声を聞き分けていると、なぜだか笑顔になる。みんなの声がやんで、ちょうどフライ・ライク・アン・イーグルも終わる。ああ、そうだったのかと、いま初めてコオロギの声が聞こえた。あれー岬は?という声がしたから、おー外にいるよ、と答えると、みんなも外に出てきた。何やってんだよ。いや、ただ月を見ていたんだよ。ちぇっ、かっこつけてんなあ。そのあと誰かが線香花火でもやるか?と言い出す。
 線香花火を持っていた誰かがいたのか、いなかったのか、覚えていない。
 夜も更けてくると、一人二人と眠ってしまう。でも私は起きている。起きて写真のことを話している。もう三十数年前なのに、きっとそのときも、新しい表現は何か、とかなんとか言っていたのに違いない。あるいはボブ・ディランのことを話している。その日、みんなが持ち寄ったレコードの中でディランの新しいアルバムが皆に受けていたのだ。
 朝がやってきたときに、まだ起きていたのは私とI嬢の二人になっていた。J君の家は丘の一番上の家で、家の前の道をさらに少し上ると、本当の丘の頂上には鉄塔が立っていた。鉄塔の周辺には夏草が茂っている。朝まで起きていた二人は、そこまで歩いてみる。夏草に付いている朝露で、足がすっかり濡れてしまった。それでも私とI嬢は、ずんずんと草の中を進み、鉄塔の下まで行ってみたのだ。ただそれだけだ。鉄塔にもたれて、眠いなあ、くらいしゃべったかもしれない。あるいは、いつ大学のある町に帰るのか?とかくらい。
 本当は、不安とか疑問とか、あるいは思いとかを、もっとたくさんしゃべりたかった。でも何もしゃべらなかった。遠くの海は、夜に見た満月ではなく、今はもう朝日を反射してまぶしい。
 長谷川きよしの「今あなたは」(だったと思う)という曲の歌詞に「酔うといつも、おしゃべりになって、同じこと何度も繰り返したものね、みな愛想を尽かして、笑っていたけど、私はそんなあなたが好きだった。ずいぶん知ってるわ、別れた人たちや、見果てぬあなたの夢の話も(中略)」というのがあった。この歌は、この先の歌詞で、夜明け近くになり仲間が一人二人寝てしまい、最後には二人だけになる(何も調べずに記憶だけで書いたのでだいぶ違うとは思います)。だからこの曲を聴くとそんなことを思い出すのです。
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今あなたは 収録されていますねえ。