風邪引いてます


 木曜くらいから風邪引いてしまいました。最初は喉痛。その後、咳や痰。いちばんひどかったのが昨日の金曜日で、会社が終わったあと、さっさと帰宅すればよいのに、ちょうど読んでいた金井美恵子の「柔らかい土をふんで、」を読み終わりそうになっていたので、書店に立ち寄ったら、ぜんぜん読みたい本が決まらない。うろうろと書棚のあいだを本を探して歩いているうちに、ふと気づくとふらふらして血の気が引いたようになっている。文庫本はあんなにたくさんの本が並んでいるというのに、ほとんどの新刊本は、もう私の年齢の読者をターゲットにしていない・・・のか?あるいは私の読書嗜好がどんどん狭い範囲に追い込まれているのか?結局妥協気味に購入したのが、クラフト・エヴィング商会が再編集したとかの猫にまつわる短編を集めた「猫」という原書は昭和30年代に出版されたという本と、ひさびさに読んでみようかないしいしんじ著「みずうみ」。それでふらふらと電車のホームに行き、帰宅するための東海道線に乗りついだときには、もしかしたら小学生のころの朝礼で、ときどき貧血みたいに目の前が真っ暗になって倒れるやつがいたもので、なんだああいうのは!とか思っていたら私もそうなったことが一度か二度あったのだったが、そういうふうに電車の中で倒れてしまうかもしれないと警戒した。結果は、大丈夫だったが。二週間くらいまえに、満員電車の中で身体をひねってビジネスバッグ(というか書類カバンです)からiPODを取り出そうとしたら、左の胸筋が攣ってしまい、そういうことはときどき、特に寒くなってくると起きるのだった(50歳超えてから)。そうなると、しばらく5分か10分か痛みを我慢していると、いつのまにやら治っているのだが、今回は5分くらいたってやっと痛みが引き始めたころに急に血の気が引いて、小学校の朝礼みたいになってしまった。目の前が真っ暗になって倒れるのはまずいから、恥ずかしいけど、その位置で床にしゃがんで次の駅までそうしていて、次の駅で降りてベンチに座って痛みが完全に引いて貧血が治るまで待っていたのだった。だから風邪の昨日もそうなるような恐怖感があったのだ。
 そうして金曜の夜は8時に帰宅して、テレビを付けたら、まだ試合中だと思っていた日本対タジギスタン戦のサッカーは終わっていて、得点シーンのリプレイだけ見た。岡崎の2点目(日本の4点目)につながるパスワークはなかなかにきれいだった。
 風邪だから早々に眠る。

 土曜日、12日。起きてみたらあいかわらず咳で、喉痛が減ったかわりに鼻水になっている。それでもなんだか昨日より調子がよい感じだったので、カメラを持って近所の田畑地域を散歩する。家庭菜園の並ぶいったいでは畑の端っこに菊やコスモスが植えてあり、そういう花はこれから冬に向かう季節の花として、とてもひっそりとしている。すでに盛りを過ぎたコスモスはいまがきれいに咲いている花もあるものの大方の花は終わって、がくだけになったり種子をつくるための過程にはいっている。茎や葉もかれているところが多い。ようするに花の株全体としてはもう枯れかかっている。それでも一つの花はきれいだ。そういう花を見ていると、そのほうがずっと生きているように見える。その枯れたりした全体が、そのままがいちばんきれいだと思う。
 そしてもし自分が猫や犬くらいの大きさで、そういう枯れかけた草花のブッシュのようなところをどんどん進んでいるとすると、目の前はこんな風に見えるのかな。と、そう思いながらカメラをブッシュに突っ込むようにして写真を撮ったりしました。

 読み終わった金井美恵子の本は、謎かけを紐解くようで、読者は惑わされ、いちど100ページくらいまで読んで、仕掛けてくる金井美恵子に対抗するために再度最初から読んでその仕掛けをほどいてやる!と思い、本当に最初から読み直し、そのあとも、三歩進んで二歩下がるみたいな読書で、途中は苦痛だったりもする。それなのに、迷路を抜けた喜びみたいに、最後の一編にくると、そこまでに仕掛けられた様々な文章の断片がなんとなく腑に落ちたような感で落ち着いてくる。そして読み終えると、これはとてもすごく面白い読書体験だったと思えてきた。ミステリーやエンタテイメント小説が、読んでいるあいだに楽しみがあるのと反対にこの小説は読み終わったあとに楽しみがじわじわとやってきた。
 巻末の著者インタビューのページで金井美恵子が『自分の書いた小説なのでいろいろな細部を思い出してしまうし、つい楽しくなって、これはプルーストが運転手からもらった別れの手紙の引用なんだ、というようなことをいってしまうんですけれども、小説を読む人には関係ないですよね。それが何なのか、そんなことは知らなくても、読者は自分が知っているさまざまな記憶やイメージを小説から触発されて思い出して、物語や内容を要約するように読むのとはまったく別の読み方で読んでいくのがいちばん楽しいし、それが小説の読み方だと思います。』と言っている。小説は言葉で書かれて、そこに、わかりやすい出来事の進展や、わかりやすい時間軸の設定があって、というのが読者の多くの前提になっていると思うのだが、この本はぎっしりと細密に描写されたたくさんの文章によって作られる段落段落がまた収斂してひとつの言葉に、というか光景になって、それが詩のようにちりばめられている。だから言葉を使った小説という形式を取りながら、ある種の写真展や絵画展を見たり、音楽を聴いて、ひとそれぞれの思いを持って鑑賞が行われるみたいなことが、この本の読者に発生するのではないか。そして、人が日常のなかで頭のなかに思い浮かべたり考えたりしていることの流転は、そういうことに近いことが起きているとも思った。
 だから是非読んでください、とは誰にも勧められないが、読んで面白いと感じた人に出会えれば、なんか同志って感じになれるかもしれない。難解なジャズグループの数少ないファンみたいに。

 それで帰宅して、撮ってきた写真をパソコンに映して、そうこうしているうちに風邪がぶりかえしてしまい、ひどくしゃがれた声に戻ってしまっている、いまは土曜の夜。

柔らかい土をふんで、 (河出文庫)

柔らかい土をふんで、 (河出文庫)