夏の終わりの身勝手な芸術論


 写真は8/30に羽田空港第二ビル展望台から撮った写真をベースに70年代風(自分なりの?)にアレンジしました。当時のざら紙の野生時代とかに載っていたような・・・ちょっと、いや全然違いますか・・・

 森山直太朗の「夏の終わり」という曲のメロディのサビだけがなんとなく頭の中に繰り返されている感じす。なんでしょう?発病していないけど保菌状態みたいに維持されてる感。小室等の「夏が終る」もいいですよ。谷川俊太郎作詞。よく判らないけど、要するに複雑な(和音の主を構成する三音にプラスしてひとつかふたつ違う音が混じったコードでかつその曲のキーに基づきよく使われる基本コードからもずれている、みたいなことでしょうか?)コードが混じるコード進行によりあんな風に夏の終りの哀しさを表現できるのでしょうか。矢野顕子もこの曲を歌っています。そのピアノの音もいいけど、小室等のオリジナルの淡々とした感じがいいように、今日このときには(こころはうつろですから)思えます。

 2日の日曜日、夜に藤沢のパンセにKyという仲野麻紀のサックスとヤン・ピタールのギター&ウードによるデュオのグループのライブを聴きに行きました。東欧やアフリカの音楽をベースにしたオリジナル曲、とくに冒頭に演奏された二曲は、私自身は乗ったことがないのですが馬車のような乗り物、自動車に比べるとすごくゆっくりと進む乗り物に揺られながら、轍が光る夕暮れの一本道を進んでいるような印象でした。一方でエリックサティの曲や、ジャズのスタンダード、などはオリジナル曲ほど面白くなかったのが正直な感想です。それで思い出したのが最近になってジャズピアニストの大西順子が引退を発表したその理由です。そこらじゅうウェブサイトに書かれているので、転載しても構わないと判断させたいただき・・・

『私が発表してきたものは果たして「自分の音楽」と呼べるものだったのでしょうか?
結局既に存在するものを自分というフィルターを通して焼き直すだけだったようにも思われます。
時として、それはオリジナルを台無しにすることも多々あったんではないでしょうか。要は自分のための勉強、もっと言えば、自分の為だけに、というエゴをそのまま仕事にさせて頂くという本来ショービジネスにはあってはならないことを生業にしてきたと今痛感しています。』

 これは「一部抜粋転記」なので全文転載よりさらにいいことではないかもしれませんが、すいません、要するにこの部分がとても気になりました。
 芸術家(あるいは別の単語のがふさわしければ何でもいいんですが)、にとって「いまだ存在が発見されていない」極北を開拓することのむずかしさはますます増しているのだと思います。ジャズで言えば、植草甚一が「マイルスとコルトレーンの日々」を暮していたころ、その極北はまだある程度広大でしかも今より簡単に行き着くところにあったのでしょう。もしマイルスとコルトレーンがあと十年遅く生まれていたらそれまで、彼等の開拓した極北地域はそのまま未開拓であった、と考えるより、別の誰かが開拓していたのだと思います。植草甚一はたとえば「ジャックとベティの日々」を同じように刺激を持って生きたのだと思います。
 という考えと、一方で、それはいま開かれた範囲を見てもうそこより先は「少ない」と考える凡庸な判断であって、また新たなマイルスやコルトレーンが登場すれば、いまは知らない新しい音楽が生まれ出でる、という期待に満ちた考えもあるのかもしれません。しかし現代音楽と呼ばれる分野には一般の大勢の聴衆を魅了するポピュラリティはないように思えるし(例えば武満が売上枚数や観客動員数でAKBを超えることはない、なんて言い方は乱暴?)
 地球表面は閉じられた球体で大航海時代を経て(適当な発言ですいません。西洋史はとってなかったし)、それが調べつくされたように、新規に開拓された芸術領域が同時に大衆の熱狂をもって迎えられるその可能性は低くなっているように思えます。50年代から60年代に芸術だけでなく政治でも経済でも、あらゆる分野で起きた変化は、まだその可能性が高かった時代だったゆえに大きなムーブメントになっていけたのでは。
 じゃあこの先どうするの?と考えると、科学者は「人類は宇宙へ乗り出せ」ということになるのかもしれませんが、まあそれはさておくとすると、これは個の違い、小さな差かもしれない、そういう機微へ目を向けるか、あるいは過去にあるものをその後の技術で焼き直していくか、といったことが浮かびます。パーソナルか、もしくはコラージュかってことでしょうか。さらにそこにクラウド上の素材の拡大による無名性。
 とここまで書いて、そういえば夏のお盆休みの前ころのある日の朝日の夕刊にどこぞの大学が数十年のヒット曲の分析を行った結果、これもうろ覚えですが「メロディの抑揚が減少し新しいメロディが生まれにくくなっている、一方でヒット曲を作るには昔の曲を今のアレンジと楽器で大音量で鳴らすとよい」という結果が導かれたといった内容の記事が掲載されていたことを思い出しました。
 聴衆はそういう状況は判っていて、だけど人間の個人個人は新たに無垢から音楽を聴いて育っていく、他の分野も同じく無垢から吸収していく、そう思うと大西順子のように演奏者にとって自分の音楽ではなくても、初めてジャズを聴く人が、「自分の音楽ではないと思いながら演奏している大西順子の演奏」を聴いて、そこにはちゃんと感動や感銘や興味や妄想やらが沸くのではないでしょうか。まあ、一方でもちろん聴衆のベテランにとっては「またこれね」という飽きもあるだろうけれど、聴衆のベテランは大抵もう中年か老年なので、既存に寄りかかっていたくて、新しいものを受け入れる体力はないかもしれないし。
 以上、尻切れトンボのうえに、美術史も芸術論も何も勉強していないうえで勝手に思っているだけのことですから、笑ってしまうような稚拙なものだとしたら、お許しください。

 ところで、アマゾンの購買履歴をなんらかのアルゴルで分析したのちに紹介してくるお薦めからちょっと違う気がするけど買ってみようかと一枚ためしに買ったりすると、また履歴分析が進んで違うのが出てきます。それでいつのまにかどういうことでこれが私に紹介されるの?といった謎はさておき、この紹介が意外と面白くて、このまえは、まったくそのバンド名を聞いたこともないダーティー・プロジェクターってバンドを薦めてきたのでYOUTUBEで聴いてみたら、ラフさと朴訥な感と、一方で奇妙な危なさが両立しているように聴こえてまた買ってしまいました。輸入盤を海外から取り寄せると千円ちょっとですね、国内盤を買うよりよほど安い。その履歴が反映されたのか、昨日アマゾンを開いたら、グリズリー・ベアなるバンドが出ていました。こういう風にいろんなバンドを紹介されてそれがすぐに動画サイトで聴ける(見られる)というのは楽しいですねえ。

Swing Lo Magellan

Swing Lo Magellan


 TSUTAYAが旧作100円になって以降、オリンピック期間をのぞいてコンスタンとに映画をDVDで見ています。ときには新作でも見たいのがあると借りてしまったり。これはまんまと蔦屋の戦略にはまっていますね。
 新作で二年ほどまえのキネマ旬報ベストテンの邦画部門などで高評価を得ていながらなかなかレンタルに出てこなかった「美代子阿佐ヶ谷気分」があったので借りてみました。漫画家安部慎一のことを描いた映画です。
美代子阿佐ヶ谷気分 [DVD]

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美代子阿佐ケ谷気分

美代子阿佐ケ谷気分

そうそう、冒頭に書いたKyのライブで隣に座った写真家のN村くん(ってもちろん中Mくん)が「1Wallのファイナリスト6に残りました」とちらしをくれたので、最終プレゼンおよび公開審査は就業後に駆けつけようと思っています。