スカイライン経由


 父が1950年代〜60年代に撮影したネガを帰宅すると夜な夜なスキャンしています。36枚撮り一本をスキャンするのに1.5時間くらいかかってしまう。六コマ分のスキャン中はやることがない。そのあとフイルム交換と保存作業をやって次のスキャン作業に入って行く。やることがない時間は、ぼーっとしているには長くてもったいない。だから映画を見ることにして、フイルム交換と保存作業中は映画は一時停止にして。ところがこの映画の見方をすると、今度は「やることがない時間」が短すぎて、ちゃんと映画を見ているという感じにならない。ぶつぎれで映画に没入できない。それで映画もあきらめて、短めのエッセイが集められている本を読むことにしている。この見方をしてしまった映画は「明りを灯す人」と「汽車はふたたび故郷に帰る」という二本でした。
 この写真の前の駒には観光バスが写っていて、その行き先表示に「スカイライン経由磐梯高原行」と書いてある。この山の稜線に人がぽつぽつと見える光景の場所は今でもあるのだろうか?ちょっと行ってみたいと思いました。
1/14追記)この写真の場所は吾妻小富士だそうです。ru-jiさんからメールをいただきました。ありがとうございます。

 年賀状をいただいた人に、私もちゃんと出したかどうか?出してなければ早々にお返事を差し上げたいが、今日までその作業を怠っていました。すいません。でもそれに相当する方が二人くらいだったので、ちょっと安心したのですが。。。
 ところが住所を見ていると、私が出した住所からすでに転居された方が大勢いらっしゃるようで、マメに筆ぐるめの住所録を修正していないので、前の住所のままに出してしまった年賀状がたくさんあった。それらが一枚しか戻ってこなかったので、あとは郵便局で転送されているってことだろう、とこれも安心しかけたのだが。よくよく考えてみると、私の年賀状は、自分の住所氏名がきわめて見にくく配置したものもあって(計4種類を作ってみたのです。そのうちの1種類が特に見にくい)、その年賀状で住所が間違っていると、差出人の私のところに戻ってこないのではないか?
 というわけで、例年年賀状を差し上げている皆様で、もし私の年賀状が届いていない方がいらっしゃいましたら、そういうことかもしれないのでご勘弁ください。

 TSUTAYAの「新作または準新作四本千円」でついつい四本を借りてしまうのだが、サラリーマン生活をしながら、しかも上記のようにネガの読み込み作業をしながら、週に四本見るのは結構きびしい。ところで、このまえTSUTAYAで新作1+準新作2+旧作1を持っていったら、もう一本新作か準新作を持ってきていただかないとかえって割高になりますよ、と言われた。旧作は四本千円の一本にはカウントできないそう。じゃあ架空の一本も借りたことにして、これで(三本で)千円にしてよ、で旧作は一本百円なんだろうから、千百円払うよ、と言ってもダメだった。 
 この話を会社や写真仲間の連中に、新作と準新作四本千円って、旧作も入れた四本だとダメなんだよね、どう思う?と話したら、一様にみなさんTSUTAYA側の「決まり」に驚いていた。いいじゃん、TSUTAYAとしては損しないんだから、って感じ。
 しかしよくよく考えると、計算が複雑になるんだろうな、と思いました。新作と準新作のそれぞれの七泊八日がいくらなのか判らないけれど、例えば420円とか350円とかでしょうか?旧作が100円でしょ。仮にその値段だとすると、四本の組み合わせが、全部旧作だと400円、全部新作だと1680円になって、すなわち1000円を超える組み合わせと超えない組み合わせが存在してしまう。新作1と準新作2と旧作1だとすると、420+700+100=1220で1000円を超えるから1000円払って得できる、けれど、新作1と準新作1と旧作2だと970円だから、お客としては1000円払うと損になる。よって1000円超えたら1000円で、越えないときにはその値段で、としてくれればこちらとしては新作/準新作/旧作どれでも4本で損のない安心が得られるけれど、そのためにはちょっとした判別式を構成してレジで判断しなければならなくなり難しそうだ。
 少なくとも準新作4本は上記の値段仮定で1400円で、新作4本は1680円だから、「新作または準新作四本千円」は必ず400円以上のお得になるようにできている。
 しかしです!仮に上記の値段なのだとすると「新作または準新作で三もしくは四本千円」としてもお得になるではないか!準新作3本は1050円(350円だとして)だから、無理して四本にしなくても貸してほしいではないか?
 ってことはTSUTAYAの準新作の七泊八日はここで仮定した350円ではなくて、3本だと千円に届かない330円以下なのだろうか?だとすると必ずお得になるのは四本になるものなあ・・・。とかなんとか考えていると、三本でいいから千円で貸してよ、とか言っていた中年のおじさん(すなわち私です)も、なんだかちょっと扱いにくい変な客ってことで、すいませんでした。
 しかしなあ、やはり、余計に借りないと安くならないということに直面すると、まっとうな感覚を覆された感じがして違和感を覚えます。

 レンタルDVDを見ていると、これは全部がそういうつくりではないかもしれないが、予告編が何本かあって本編に入るという映画館の上映と同じような作りになっている。このまえ見た、まつけんとえいたの鉄ちゃん映画「僕達急行」だったかを見たときに、予告編と予告編のあいまに数秒の暗転とサイレント部分がはさまる。予告編自体がときにはとても明るいエンタテイメント映画やお笑い映画であっても、ふっと予告編が終わると暗転する。あるいは予告編から本篇に入るときにも全く音がしない数秒がある。その暗転で静かな数秒間があることが、なんだかいいんですね。いい、と感じるのは、子供のころからときどき映画館に行くたびに擦り込まれて気づかないけれど同じような気分になっていたのかもしれないのだが、映画はスクリーン上に(ま、DVDのときはテレビ画面上に)写された束の間の幻の物語で、映画という夢の時間にいくら没入してもそれはずっとは続かなくて、この映画が終わって外に出るとちゃんと時間がいつもの速度で流れていて、外は暗くなっているのだ、それが現実なんだ、というようなことがこの暗転の数秒で否応なくつきつけられたのではないだろうか。知ってはいるけどそれってちょっと悲しみであります、といったような、そういうふっとしたことが漂うのだ。映画の楽しみには、映画自体を見ることよりこの「予告と予告」や「予告と本編」のあいまの時間を楽しむという超偏屈な鑑賞もありだな、と思った。

明りを灯す人 [DVD]

明りを灯す人 [DVD]