フイルムカメラひさびさ稼動す


 京都フォトアウォード一般部門で、とある賞をいただけたようで、ありがたきしあわせ。
 フォトアウォードには一枚の写真と、五十枚くらいからなるブックを出した。壁に懸けていただいた一枚の写真(2/24記事の写真)は、五年くらい前だろうか、もっと前かな・・・、八年前か十年前か・・・仙台のいまはもう取り壊された天文台(新しい天文台は別の場所に出来たのだと思う)にあったいろんな天文学入門解説の装置を、亡義父の使っていたミノルタX1というフイルムカメラに、中古で五千円くらいで買った、少なくとも外観はボロボロの28mmのレンズで撮ったもの。X1は一枚写真を撮るとミラーがアップしたまま戻らなくなるという、このカメラではよくある老朽化に伴う故障に陥っていて、それを直すのはいちいちレンズを外す・・・だったかな、とにかくある決まったなんかの操作をするとミラーが降りてくる。だから一枚撮っては、その操作をする、ということを繰り返して撮っていた。それを最後にX1は使ってない。この28mmのレンズは、ど真ん中にフレアスポットのようなもわっとしたゴースト様のものが乗るのだった。個体の問題だったのかな、ぼろぼろだったし。

 今日は、一年か二年前に半額で購入したまま結局は使ってなかったフジフイルムのISO400の36枚撮りネガフイルムが、ずっと部屋に放ってあったのを使ってみることにして、これも二年振りくらいにキヤノン6Lを防湿庫から出してくる。6Lは90年代の中ごろだったろうか、このカメラがどうしても欲しくて、カメラ雑誌の中古コーナーの宣伝文句を読んで、すなわち「キヤノン6Lボディ・ランクA・ケース付」なんて言うだけの情報で確か名古屋の中古カメラ屋に電話をして通販で買ったのだった。
 久々にフイルムカメラを使って、フイルム現像と同時にCDに画像データを読み込んでもらい、そこから読み出したのが上の写真で、銀座二丁目を吹きぬけた強風の場面です。レンズは35mm/2.8の銀鏡筒。
 不思議ですねえ。これと同じ瞬間にいつものデジタルカメラでシャッターを押したとしたら、もちろん同じ場所に同じように被写体が位置して写真が撮れるわけだが、なんでフイルムで撮った方が「味わい」みたいなことが滲み出るのだろう。それとも私だけがそう感じるだけで、皆さんにはそうは見えないのかな。違いとして考えられるのは、ひとつはデジカメの方が色再現は優れているが人間に刷り込まれた写真の色合いという実景とは違う写真「らしい」色再現があって、その方が、即ちリアルではない方が「味わい」をもたらすという仮定。もしかしたら生まれたときからデジタル画像に親しんでいる人たちには、この写真を見て私が感じている「味わい」は感じないのかもしれない。
 別の仮定は、フイルムの方がラチチュードが広くて白飛びや黒つぶれが抑えられているようなトーンカーヴ特性を持っていて、それが優しさを演出するってこと。
 ・・・まあいいや。

 3/2は昼ころに銀座に行き、BLDギャラリーで野村佐紀子NUDE/A ROOM/FLOWERを見る。ついでのつもりで寄ったのだが、何周か会場を見てまわっているうちにだんだんだんだん、いつのまにかすっかりはまってしまう。開高健の「玉砕ける」を含む、短編集「珠玉」、あれ?「ロマネコンティ1935」だっけ・・・を読んでいるときに感じたような焦燥感を覚える。視点はプライベートな夜の室内から明るい朝へ、町から町へ、また暑く気だるい夜へと彷徨う。よく須田一政先生は須田塾のとき、誰かの写真の束を見た講評の際に、好感を抱いたときの一つのケースとして「映画のようだ」ということをおっしゃっていたが、野村佐紀子の写真の並びを見ながら、「玉砕ける」などの短編小説が、いくつかの夜や朝や昼を繰り返すなかに、近くを見る視点や遠くを見る視点や、今のことや過去のことや未来のことの絡み合った複数の懸念や希望のカケラが生み出す一人一人が抱えている焦燥感を描くのと同じように、複数の写真がそういう時間と視点の流れや転換を現出させるようだった。

 3/2はその後、ギャラリー小柳で鈴木理策セザンヌのアトリエ」を見て、知人のM川くんが出展しているEPCO10×2(で合っているかな?)という展示を恵比寿のギャラリーで見てから、茅場町に移動。ニセアカシア4号に向けた同人会議に出席した。
 私も参加している同人5名(写真4名+テキスト1名)によるニセアカシア4は4月上旬に刊行予定です。3号から一年ぶりです。刊行に合わせて茅場町森岡書店ギャラリーでグループ展の予定もあります。もうひと月前なので早々に正式にアナウンスいたします。