長興山のしだれ桜


 十数年振りに長興山のしだれ桜を見物してきた。最後に行ってからもう十年以上経っている。つい数年前に行ったことがあるように思えるのに、いろいろと状況証拠から推定したら最後にこの桜を見物したのは14年前という答えが出てきてびっくりした。こういうときに不意に誰かにインタビューされたら「いやー時が経つのは早いなあ」という感想を言うことになるのだろう。
 いまの体力であの長い階段をちゃんと上まで登れるものだろうか?と、家を出るときは、ちょっとした覚悟のような思いすらあったのだが、覚えていたよりも階段は短かった。もちろん息は上がったがまあなんてことはなかったからよかった。
 この桜は、箱根登山鉄道(と小田急線の併用区間)にある入生田という駅から歩いて行く。山の中腹にある桜まで車道もあるのだが、観光客は下の駐車場までで坂道は上がれない。まあ山と言ってもたいしたもんではないです。徒歩10分くらい坂道を登るというだけの話です。車道は当然坂道でそっちの方が歩きやすいが、階段の道もあって、これは昇り切ると江戸時代までそこにいろんなお堂や庭園があった跡地がミカン畑になっているところに出る。今日は薄曇りだったが、快晴だとこのミカン畑の風景もぽかんとしていて素敵なのだ。だから階段がおすすめです。
 最初にこの桜のことを知ったのは、箱根からの帰りに国道沿いの魚料理の店に寄ったら、そこの壁にしだれ桜の案内だったか新聞記事だったかが貼ってあって、それで店の人に道を聞いて行ってみたのだった。それは20年近く前ってことだろう。
 そのときには桜の根本まで自由に入れたが、いまは養生のためか桜を大きく囲うように立ち入り禁止の柵が出来ている。そのかわり、20年前にはなかったと思うベンチやテーブルや、臨時の?茶店が出来ている。第一、この桜を見物に来る観光客がすごく増えたのではないか?上野やら千鳥ヶ淵やらの桜の名所はずっと前からすごいにぎわいだったのだろうけれど、こんな風な樹齢を重ねた一本桜に人が群がるようにやって来るようになったのはいつからなのかな?桜狂想曲は年々増している感じがする。そして私自身はもうずいぶん前からすっかり感染していて、桜が咲くとそわそわしてしまうのだ。
 花の勢いが十数年前より落ちたのではないか?それとも記憶の中でこの花の美しさが増大していたからそう思ったのか?まだ八分咲きだからそう見えただけで明日には満開になってもっときれいになるのか?このしだれ桜は小さな純白の花を付ける。たまに日がさすとその真っ白な花びらの一つ一つの端部が輝いているように見えるのだ。
 最初は下の写真ように桜からさらに上の方に続くミカン畑の農道から露出アンダーにして白い花だけが浮き出るように撮ってみたりする。それから上の写真のように桜の前まで降りてきていろんな画角で試してみる。こんな風に白い薄曇りの空を広くするなんていう作画までやったりしてしまう。露出は+「1と1/3」か「1と2/3」段まで開ける。それからピントをぼかしたり、花に近づいたり(これは囲われた樹齢数百年のしだれ桜の子株の木。そっちは近づける)。桜を撮るときには、いつもとちがっていろいろとどう撮るかを考えたりしてしまうのだった。
 しかし写真ばかり撮っていて、撮ったらそれでおしまいですぐに帰って行くというのも味気ない。そこで桜の正面のベンチに座り、ぼーっと見上げている。二十分かもっと、ただぼーっと眺めてみる。茶店から流れるありきたりの邦楽の音がうるさいから途中でiPODを聞きながら眺めることもやってみる。イヤホンで音楽を聴くなんて邪道のようでいて実はなかなかいい感じになるときがあるのです。でも選曲を失敗するとダメなんですけどね。今日は藤井郷子のフリージャズ風にした。そうしたらだんだんと枝ぶりが奇怪に盛り上がってのたうち回り始める気がするのだった。
 今度はiPODを停める。また邦楽(ある種のお蕎麦屋や甘味どころで流れている琴の曲みたいなのです)が聞こえるが、ときどきシジュウカラが桜に立ち寄ってはどこかへまた飛んでいく、そのときの鳴き声が美しい。でもずっと見上げていたら首が痛くなった。
 入生田の帰りには小田原の街に立ち寄った。川崎長太郎が歩いたであろう抹香町のあったあたりまで行ってみる。狭い路地と小さな家。ほとんど人影を見なかった。最後に小田原城址公園で満開のソメイヨシノの下を歩いてから帰った。