失くした写真の理解って?


 母の通院に付き添うために休暇取得。午前は某総合病院で、多くの時間を待ち時間として過ごす。

 午後3時過ぎに自家用車で横須賀美術館に行く。街の記憶〜写真と現代美術でタドルヨコスカ〜展をゆっくりと鑑賞。東松照明森山大道北井一夫石内都田村彰英ホンマタカシ、など、多くの写真家が横須賀を撮っていて、その代表作がずらりと展示されている。森山作品も東松作品も素晴らしいが、石内都野比海岸の風が写っている荒れた写真がいい。その写真の前を通り過ぎても、視線がまたそちらを探してしまう。過去のある時間にあった光の痕跡なのに、その写真の中にいつも風が、それも誰にでもある不特定な「あの日の風」が吹いている。
 藤田修の作品は、以前、この美術館で小さな企画展を見たときと同様にすごく惹かれる。フォトポリマーグラヴュールによる版画作品。例えばアレブレボケの写真表現とソフトフォーカスで柔らかな写真表現を足したような不思議な味わい。

 自動車を運転しているときにユーミンの「埠頭を渡る風」を聞いていた。
♪だから短いキスをあげるよ、それは失くした写真にするみたいに♪
と言う歌詞がある。これは「もう失くした写真に(むかし)短いキスをした、それと同じような短いキスをあなたにした」という意味なのか?それとも「いまあなたにあげた短いキスが、(後日あなたの中で)失くした写真のようになるだろう」といった意味なのか?いや、私はずっと後者だと思っていて、でも「失くした写真」というものにそれほどの、すなわち比喩になるほどの「共通理解」はあるのか?ということが気になっていた。ところが、単純に前者のことをうたっているだけなのではないかとふと気が付いた。

 で、ユーミンが歌ったのが後者だったとして、失くした写真というのは、いちど留まったイメージを再び記憶のなかに沈めるという画像の反芻といった行為なのかな?たしかに、ある日のある場面はそこを写した写真の静止画像になって、すなわちリアルタイムのリアルな出来事の記憶ではなくて、その後なんども写真を見て、あるいは見てしまったことによって、リアルを記録した静止画の写真に写った画像を記憶していることが多く、その写真がなくなっても、動画(リアル)でなくて静止画(いったん保存された視覚情報である写真)を再保存して記憶としているようなところがありますね。失くした写真のようなキスとは、そのキスをもらったという「あなた」たる男の子は、その後のいつか、その埠頭に行った夜のその瞬間の場面だけを、静止画のように覚えているだろう、ということか。短いキスはシャッターボタンを押すような行為か。

 写真は29日に立石で撮ったものです。