再度切り出すこと


 朝、五時に物音で目が覚める。七時ころまで本を読んだりしていたが、また眠くなったからいつのまにか寝てしまったが、八時にトイレに行きたくなり再び起きる。どうも眠気が去らないから、またベッドに横になり浅い、覚醒と睡眠の中間のような状況のなかに漂っていると、今度は八時五十分ころに宅急便の配達で起こされる。どうもこの一連の寝たり起きたりが原因なのか、起きてからも眉間の奥あたりに眠気の塊が居座っているようでどうにもこうにも元気が出てこないのだった。
 届いた宅急便は、このブログの5月13日に書いたダグ・リカードの「A New American Picture」という写真集だった。一昨日の夜にアマゾンで一冊だけ、妙にほかよりも安い値付けのがあったから買ったもの。早速にページをめくると、もちろん解像度や色再現といった一般的尺度の画質はひどいものだが、そういうことより切り出された画像はカッコいい。画質さえうんぬんしなければ、エグルストンやショアの撮ったアメリカの、それから時を隔てた今の様子が、生々しく写っていて同時代の写真のパワーが漲っているようなのだ。

 それで、グーグルストリートビューからの切出しを自分でも実験してみようと思った。知らない異国の通りに行ってみようかとも思ったが、まずは知っている町に行くことにした。最初は小学生〜中学生のときに住んでいたあたりから学校までの通学路を辿ってみることにしたが、見慣れた日本の地方都市の県道沿いには、安っぽいファザードの商店(それもその多くがチェーン店だったりする)か、それが途切れるとガードレールや赤い工事のコーンや、ブロック塀や広告の貼られたコンクリートの電信柱が、現れるわけで、それはもちろんそうなのだがどうも切り出したいという意欲の沸くシーンが現れない。車って、こんな観光地でもなんでもない地方都市の県道だと、軽自動車とトラックが圧倒的に多いんだな、とあらためて知ったり。
 そのあと鎌倉の小町通り八幡宮参道、葉山の海沿いの国道、なども見ていくが、いつもの日本の景色が延々と繰り返されるだけで、実際にそこにいるとき以上にモニター画面を撮りたく(保存したく)なるような気持ちは一切沸かないのだった。
 日本人が見る「A New American Picture」に写ったアメリカの風景と、ダグ氏が実際にグーグルストリートビューをPCモニターで睨みつけながら作業をしているときに感じているアメリカの風景とは、感じ方が違うはずで、もしかしたら、私が「つまらない」と思いながら日本の地元の良く知っているストリートのビューを眺めているその気分を、ダグ氏も感じながら、それでも稀なるフォトジェニックの一瞬を掘り返すべく、忍耐を重ねたのだろうか?と思う。ストリートビューは、バス通りなのに欠落しているかと思えば、なんでこんな細い路地まで入っていくのか!?と驚くようなところまで捉えている場合もあった。上の写真は1時間か2時間か、ずっとストリートビューを見ていて、唯一ちょっとだけ面白いかなと思って、その画面を保存したりする方法ではなく、コンデジのマクロモードで画面を撮影する方法で撮った1枚。何度か散歩ついでに撮りに行った、相模川河川敷にあるバイク店(バイクのリサイクル部品や中古バイクを売っているのだろうか?)あたりで、皮ジャンを着たライダーが二人、よくわからないがもしかしたら煙草を吸っているのかな?その入口あたりにたたずんでいる場面があったということ。モニターの画素が写らないように、画質の悪い画面をさらにデフォーカスして撮っているのでひどくぼんやりとした写真になってしまった。

 さて、グーグルストリートビューからではなく、自分の撮った写真をモニターに出してよく眺めてから、その一部を、主被写体の場合もあるし、撮ったときには気にもしなかった背景の一部の場合もあるのだが、その一部を接写する(モニターを撮影する)ことは2005年ころからときどきやっていた。そういう風に撮った写真と、実景を撮った写真をまぜこぜにして須田塾に持っていくと、須田先生はずいぶん気に入ってくださり、結果としてそういう風なモニター接写写真はほとんどを選んでくれたので、ある月例の回に、その手の写真だけを持っていったら、それではダメだと言われたことがあった。
 そこでグーグルストリートビューをあきらめて、その方法を久しぶりに集中的にやってみた。その一例が下に並べた4枚の写真です。
 最初の写真展「流星」のときにもそういう方法の写真を何枚か使った。昨年、松本さんに作っていただいたzine「UNDER CURRENT」にもその手法の写真がたくさん入っている。どうしてこういう風にして作った情報量が少ない、画質の悪い写真なのに、気に入ってのめりこんでしまうのか?鷹野隆大氏がアサヒカメラ誌で「未来のあるときに今が過去になった、その過去の記憶を思うときに浮かぶ今の映像を今のうちに作っておけるか?」といった実験めいたことをしている。私の場合は、どうやら記憶の映像は実はちゃんとした映像ではなくて、映像のように思わせぶりな何かなだけなようだ。だから記憶の映像を絵に描けと言われてもいざ描こうとするとなにも描けないのだが、でも参照能力はなぜか備わっていて、あらためて過去の写真を目の前に出されると、そこに写っている場所は人が、どこでだれなのかがすんなり判ることもあるから不思議だ。鷹野さんがやっていることは、過去の映像がホントに映像として確固として存在していることが前提のように思えてしまうから、前提としている人の映像記憶能力のばらつきの中のどこに立ち位置を取るかが違う気もするのだが、興味深い連載ではある。
 若干、脱線気味だが、こういうモニター接写手法により画質が劣化した(させた)写真は記憶の映像により近いのかもしれない。





Doug Rickard: A New American Picture

Doug Rickard: A New American Picture