無題


 阿部昭の本を会社の昼休みに読み終わったので、続けて何か読む本はないか?と三十年以上の会社勤めで、こうして会社で読了した本を家に持ち帰らずにいてしまった本が何冊も溜まってしまっていて紙袋に入れて、袖机の向こうの壁とのあいだに置きっぱなしになっている。その中から、片岡義男著「いい旅を、と誰もが言った」を見つけたので、読み返してみることにする。これは文庫本だが、1980年ころに、この短編集の単行本が出たのだが、その装丁は端正で好きだった。あの頃は片岡さんの本が大好きで、雑誌野生時代に短編が載るとすぐに読んでいたし、短編集が出ると買って、また読んでいた。特にことの「いい旅を、と誰もが言った」を読んでどこかへ行きたいと思ったものだ。中型オートバイの免許を取って、いろんなところにツーリングに行き始めたのもこの本や、「彼のオートバイ、彼女の島」を読んだのがきっかけだったろう。
 ところが、当時そんなに夢中になった本なのに、四十才代になって読み返すと、もうそんな風になにかをけしかけられることもなく、片岡さんの文章もなんとなく鼻に付くというか。それで読み返すことが出来なかった。
 ところが、ふと手にして読み始めてみたら、意外にも今度は面白い、面白いということに「懐かしさ」があるのかもしれない。四十代のときと違うのは「懐かしさ」の違いで、だからこの読書は同時代的読書ではなく、懐古趣味的読書なのかもしれないな。二十代に読んだときには男と女をはじめ登場人物のあいだの関係性と、そこでの会話や振る舞いにある種ハードボイルド的なかっこよさを読み取って憧れていたという部分が強かったのだろうが、短編「ロードライダー」なんかを読むと、ずいぶんと丁寧に情景や心理の描写が描かれていてあらためて感心したのだった。

 話は変わります。いま、朝起きて寝るまでのあいだ、誰かが作った見たり読んだりしてもらうための映像やテキストを見ている時間はきわめて長くなってきているのではないだろうか?テレビ、本、新聞、広告、ネットの多種多様な画面、等々。部屋の中や窓の外や街や自然や、空や木や花や、そういうものを見るよりもずっと長いかもしれない。
 写真を、日常を写す行為と捉えた場合には、だからこうして画面などの(自分を含む)誰かが撮った映像を「複写」するということは見たことの記録として、当たり前田のクラッカー、なのではないか。などと複写の必然性を日常記録の写真の当然の同時代性だと思ったりしているのだが、それより先に複写の面白さを感じているから、後付した理屈に過ぎないのか。
 これは私自身が撮った写真を再度じっくりと眺めているうちに、そこを撮りたくなり複写したものです。

 写真のもたらした悪影響ってあるのか?古い出来事を思い出してみようとするときに、その出来事で撮った写真が残っていると、その写真に写った映像ばかりが浮かんできて、それ以外の写真には残っていないその出来事の映像の記憶がほとんどないことが多くて愕然とする。例えば小学校のときに好きだったKKさんのことは、小学校の校舎と校舎のあいだを自転車で走っているKKさんと、中学に入る前の春休みに卒業したばかりの六年三組の教室に集まったときの記念写真に写ったKKさんと、小学校六年の林間学校のときに飯盒炊飯の前でたたずんで時間を待っている体操服姿のKKさんと、その三枚の写真に記録されてその後も何度か見ただろうゆえに記憶が強固になった画像の記憶以外に、写真にはないがあのときのKKさんを覚えている、といったことが一つとしてないのだ。
 みなさんがどうなのか?私が写真中毒だからなのか?これが写真の悪影響ってことはないのだろうか?

いい旅を、と誰もが言った

いい旅を、と誰もが言った