予定調和


 飛行機のなかで往路復路合わせて三本の映画を見た。「舟を編む」(日)、心の陽だまり(仏)、カルテット〜人生のオペラハウス〜(英)。
舟を編む」は原作を読んでいて、映画はほぼ原作に忠実に作られていたため特に驚きはなかったものの、よく出来ていると思えた。ほかの二本の映画はどういう内容なのか、まったく知らないまま(とは言え、JALの映画プログラム案内に数行の解説文があり、それを読んでから見始めたわけだが)見た。そしてどの映画も、大きなどんでん返しも驚きもなく、いままでに見たたくさんの映画の仕立てからの類推可能な域内で予定調和的に無事に物語が進み、ちょっとした、ほんの小さな風が運動会の校庭を吹き抜けて埃の匂いが一瞬よぎったような感動というか感慨を起こして、終わった。たぶん、原作を読まずに「舟を編む」を見ていてもそういう感想だったのではないか。だから、私が何を言いたいのか?予定調和的だったということは小市民的で私小説的で、もちろん何かが起きているから物語になっているのだが、それでも隕石がぶつかってくるとか地球にエイリアンがやってくるとか、どこかのマフィアの争いの中で大勢の人が死んじゃうとか、彼女が大病を患う哀しい恋愛が涙を誘うとか、戦争の修羅場の真っただ中で人の精神が壊れる寸前の映像が続くとか、見ているのが怖いくらいに若さが無軌道に突っ走っていくとか、そういうことから比べると「何も起きない」。(いや、それらだって、すでにその手のそれぞれの予定調和的な映画の典型が出来ているのだろう)
 いや、これは短絡的ですね。それぞれに素晴らしい物語があって、それは愛おしくもありふれた、ということ。うーん、こう書いてみると「カルテット」という映画の設定は、もう少しは波乱万丈ではあるとは思うが。ただ、たくさんの映画作品の中のある系列の中では、ありふれていて愛すべきよく出来た小品、みたいな映画だった。
 ええっと、誤解してほしくないのは、そういう映画を「新しくない」と批判したいわけではないのです。飛行機のなかで楽しんだという私的な状況含めて、たぶん思い出に残る映画鑑賞になるのだろうな。

 先日、このブログにクロスビー&ナッシュのことを書いたこともあり、アマゾンでCDを買って聞いてみた。1970年代後半に、私がしょっちゅう聞いていたザ・バンドなどに比べると、聴いた回数はずっと少なかったと思うのだが、いざ聞いてみたら、一曲目のキャリー・ミーとか、何曲目かの「金持って逃げろ」みたいな歌詞らしい曲や、最後のウインド・オン・ザ・ウォーターも、いざ聞いてみたらいきなり懐かしく思い出せるのだった。まったく思い出せない初めて聞いたように思える曲もあるけれど。
 音楽のメロディが、独力では思い出せないのに、こうして何十年も経たあとに聞いてみたら「聞いたことあることが判る」とか、ときとして「次に続くメロディが判ってしまう」となるのは、頭の中の記憶装置にメロディの「かけら」みたいなことが独力では思い出せないけれど鍵となるきっかけさえあれば取り出せるように、完全には消去されずに残っているということなのか。あるいは、メロディの記憶がある、というより、メロディがきっかけになって、その他の五感のすべてを使って残っている「当時の」(1970年代後半の)私的な記憶、もしくは記憶のようなものとかことが、複雑に関連し絡み合って立ち上がってくる中の一つの効果として、「聞いたことあることが判る」とか、ときとして「次に続くメロディが判ってしまう」という現象が起きるのか。

 十代、二十代のころに接したものはこうして「否応なく」覚えてしまうところがあって、そういう能力がこれまた同じく「否応なく」備わっているのが若さの特権であり、青春なんていう言葉のピュアであることとその正反対であることの混沌も、そういうことが出来る肉体的特徴を維持していたときに通過している時間、と考えるのは判りやすいってことかもしれない。

 予定調和的「ありふれた」小品も、二十代の青年が飛行機のなかで一人見たとすると、そこから発生する個の心に残る大事なインパクトは私とは圧倒的に違うってこともあるのだろう。