マンハッタンの太陽 その他


 栃木県立美術館で「マンハッタンの太陽」展。東京に移動し、竹中工務店のギャラリーで「トーベヤンソン夏の家」展、フォトギャラリーインターナショナルで須田一政写真展「テンプテーション2011-2013」、リクシルギャラリーで「中谷宇吉郎・森羅万象帖展」を見る。夜は茅ヶ崎で映画「風立ちぬ」鑑賞。

 コンパクトデジカメは今年の春に買い替えたPowerShotS110を使っているが、初夏に北海道へ行ったとき、車を降りる際に着ていた薄手のコットンのカーディガンのポケットからコンクリートの道路に前面を下にして落としてしまった。動作に問題はないが、なんだか全体的に解像度が低下している感が否めない。銀座の歩行者天国を撮った写真をみてそう感じた。歩行者天国で100枚くらい写真を撮って、じゃあ上の写真がそれほどにベストショットとは感じないものの、選ばなかった他の写真と比べて、色や人の配置や露出が自分にとってまあまあちょっとは許せる、っていうのがこれしかなかった。

 マンハッタンの太陽 http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t130713/index.html
 上記HPより本展に関する「口上」部分を転載すると、
『1970年代、80年代のニューヨークはアートが燦然と輝く創造の街でした。
 そのマンハッタンを手製のピンホール・カメラを抱えて、まるで金環食のようなまばゆい写真に仕立てたひとりの日本人アーティストがいました。1979年の第15回サンパウロビエンナーレに参加した帰路、マチュピチュを撮影した山中信夫(1948-82年)です。1980年に山中はこのマンハッタンで数多くの傑作を生み出しました。帰国後、《マンハッタンの太陽》は1980年から81年にかけて制作された《東京の太陽》へと発展し、《マチュピチュの太陽》とともに1982年の第12回パリ・ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)で大きな注目を集めながらも、帰国途上に再び立ち寄ったニューヨークでわずか34年の生涯を閉じました。
 山中の若き晩年のピンホールがとらえた黄金色に輝く円環は“太陽画”の起源を再考させるものであり、太陽をたんなる光源としてだけではなく、巨大なエネルギーを放出する熱源として捉えなおし、視覚(光学)に限定されていた美術を熱学へと拡張するものでした。
 本展は、山中信夫の作品や関連資料を中心に、18世紀から21世紀までの20余人のアーティストたちの約140点の絵画、彫刻、写真、映像、版画、インスタレーション、映画によって、光源としての太陽と熱源としての太陽の両面から、可視光線を越えたエネルギー源としての太陽と私たちとの関係を考察・鑑賞・体験するものです。』

 以下、私の感想。
 8×10または4×5のピンホールカメラで撮られた、ニューヨーク、東京、マチュピチュ。例えばマンハッタンの高層ビルのあいだなど、太陽そのものが画面内に入るアングルで撮られている。逆光ゆえに、ピンホール部の真鍮板の断面に反射した光が強烈なゴーストになって丸く光景を取り囲んでいる。このゴーストは、不安定で(幾何学的に正確な真円でなく)、太陽の位置や光の強度との関係で「取り囲んでいる」のが三百六十度全周ではない。そして取り囲んでいる光の環の幅の色も、虹のシャワーように複数の色が混じっているのもあれば、ひとつの色が支配的な場合もある。そういう写真を見ていると、小さな穴からこっそりと向こうの風景をのぞき見ているということではなくて、ここに生(なま)の眼球があって、ゴーストの部分は血管が走っている白目の部分であって、写っているピンホール故にぼけて流れたような光景は、眼球の黒目の部分に写っている光景を反射して見ているような感じを受けるのだ。カメラを通してみた光景というより生の眼球が目の前にあってそこの中に捉えられた光景を見ているという不思議な感じを、回りを取り囲むゴーストによって受けるのだ。そして、そのゴースト光が、一枚一枚まったく違うので、それがこの作品の面白さにもつながっているのだと感じた。
 マンハッタンの太陽に写っている町は、どこで何を撮ったのかにもよるのだろうが明るく快晴で太陽の光に満ちている。東京の太陽に写っている町は、それに比べてどこか暗くてしっとりとしている。それは撮っている時刻や季節の差かもしれないし、日本人であるからこそ、それらの写真を眺めたときに感じられることがあるのかもしれない。
 以上が「マンハッタンの太陽」の感想。