口は大を吉


 自分が、自分の撮った写真から、何かの目的で、たとえば誰かに写真を見てもらうとか写真展をするとかポートフォリオを作るとか、そういう目的で写真を選択するとして、その選択眼は写真を撮っているときに、ここを撮ろうと思う撮影の選択眼とだいぶ違ってしまっている気がする。そして、撮るときの選択眼の方が、比較的に、少しは自由奔放で、出来上がった写真から何かの目的で写真を選択していくときにはひどく既成の見方に縛られているように思える。そこを崩してくれるには他人の意見を、とくに写真の既成価値を飛び越えて自分だけの面白さから何かを指摘してくれる他人の意見を、頼りにするのが良いのだが、そういう機会が長らくないと、だんだんと写真の選択が既成のつまらなさに縛れていくように感じて、焦燥感みたいなことを感じる。
 だから、いままでの自分の選択眼とは違う選択眼に故意に立って、自分の写真を選べないだろうか。あえてまずこれを選ぶだろう、というのをはずしていったらかたまりとして違う写真の群が出来ないものか?などと大それたことを試そうとして、今年の1月と2月に撮った写真を全部見返して、そこから約160枚を選んでみたが、結局は、撮られてから時間が経っていることにより、すでに懐かしさが生じていたり、記憶の曖昧さがなにか語りかける要素になってしまっていたりで、写真を見返す面白さに捕われていて、そんな風に視点を変えたということにはなっていないようだった。

 16日の土曜日は、家族の某が六本木ヒルズで開催中のスヌーピー展に行きたいと言うのにのっかって、じゃあちょっと興味あるから行ってみようか、と同行。午後2時過ぎに六本木。混んでいることもあって、入場まで30分、入場後見終わるまでに3時間以上かかるが、予想よりずっと面白かった。スヌーピー展という名前はいかにも日本人の女の子や子供向けのキャッチーな名前で、ピーナッツ展もしくはシュルツ回顧展というのが内容に即しているだろう。

 16日の土曜日。上記の展覧会のあとに、新宿御苑前のギャラリーPLACE Mのミニギャラリーで須田塾仲間の伊藤泉葵さんの写真展を見る。最初の3枚の荒れたモノクロ写真は、ちょっといかしている。なにかをふっきれて、もう期待しない、それゆえに明るい旅に出かける、そんな感じかな。