前橋


 写真は前橋の利根川にかかる大渡橋の上から。利根川に掛かる大渡橋を(多分)西から東へ渡ると、前橋市の岩神町あたりなんだなと、地図を見てわかった。岩神町には、群馬大学に勤めていた、母方の祖父母が、私が中学校に入る頃までだろうか、住んでいた。多分、群馬大学の官舎というのか、職員の家が、市内を流れる広瀬川の更に支流みたいな小川、かな、小川と呼ぶには相応しくないくらい水量は多かったようだが、その川を背にして建っていた。平屋で、二間の和室と廊下づたいに、祖父が使っていた洋室が奥に一間、今で言えば3Kの間取りだった。いや、もしかしたら玄関に続くところに小さな、三畳くらいの小部屋がもうひとつあって、4Kだったかもしれない。疎開してから、昭和20年代途中まで、祖父母と五人の子供(その長女が私の母)が暮らしていた。母が嫁いでこの岩神町の家を出たのが昭和28年か29年か、そのあと五人の子供は、都内の大学に行くためや、結婚などの契機に家を出て、私が小学生の頃の夏休みや春休みに、母に連れられて祖父母の家に遊びに行くときには、すでに祖父母は、二人で住んでいた。あの家に七人が暮らしていた頃は、大変だったろうな。でも、当時の日本はどこもそんなだったのだろう。
小学生の私にとって、前橋の祖父母の家に行くことは最高の楽しみだった。近くの敷島公園でボートに乗ったり、蝉取りをした。初めてコカ・コーラを飲んだのも祖父母の家だった。近所の八百屋には、名前を初めて聞く柑橘類が売られていて、八朔だとかネーブルだとかの名前は祖母から教わった。前橋が柑橘類の名産地ってことはないだろうから、この店がそういう品揃えに力を入れていたのだろう。帰省していたおじさんに連れられて利根川の川原へ行き、野良犬に吠えられて足がすくんだこともあった。母は、利根川が台風の大雨で氾濫して友達が家ごと流されたことがあったと話してくれたように思うが、そんな災害もあったのだろうか。敷島公園に隣接して水道タンクと浄水場かある。いまも水道タンクは、あれは現役なのかな、それとも文化遺産として保存されているのかな、そこにある。その水道タンクと浄水場のおかげだと私は信じていたが、とにかく前橋の水道水はいつも冷たくて美味しかった。裏の小川から水を引き入れた下水道も下水とは思えないほどに澄んでいて、笹舟を流してみたり、おはぐろとんぼや糸とんぼを追っ掛けたりした。
先日のこのブログに、新宿御苑の冬枯れの道を歩いていたら、西脇順三郎の詩を思い出したということから始まって、あれこれとつまらぬことを書いたら、yさんから、萩原朔太郎の写真のことをコメントして頂いたので、冬休みの初日に青春18切符で、宇都宮から前橋経由で、前橋文学館て朔太郎の写真を見て(多分、あるだろうという適当な憶測)茅ヶ崎に帰ることを思い付いた。
しかし、前橋文学館は9時半開館で、私は次の用事のために10時半の高崎行きに乗る必要があり、一方、前橋には8時過ぎには着くので、それらを勘案し、当初目的の前橋文学館は後日にすることにして、駅前から、数時間に一本しかないらしい敷島公園行きのバスに乗り、敷島公園と水道タンクと祖父母の家のあったあたりと大渡橋、そのあたりを散歩してきた、という次第です。
数年前におじさんは、岩神町の、昔住んでいた家がまだあったと言っていたが、ここ数年の間に壊されて新しい住宅になったのか、それとも私が見付けられなかっただけなのか、それらしき家は見当たらなかった。青果店かあったか、それが柑橘類をたくさん売っていたあの店なのかはわからない。大渡橋通りというらしい、水道タンクからまっすぐに伸びた道から、水道タンクを背にして左に曲がる袋小路の突き当たりが祖父母の家だった。それらしい路地は幾つかあった。きっとそのどれかが、祖父母の家の前の路地だったんだろうが、もう私にはわからない。
大渡橋は沢山の車が行き交う幹線道路の橋で、私が小学生の頃からも一度、掛け変えられたようで、アーチも何もない特徴のない橋だったが、上州の山々か広く見渡せた。
昔の記憶や写真を頼りに何処かを訪ねても、大抵はなんの拠り所も見付からずに、投げ出されたような不安定な気分になるものだ。だけど、そのまた後日になにか新たな思いが生まれたりして、多分また、あるいはより一層に、前橋は大事な記憶の場所になるのだろうな。