記憶の変容を受け入れる


 ネットで調べてみたら2007年の11月に仙台市の西公園にある天文台が閉館になり、そのあと、もっと郊外にある新しい仙台天文台に引き継がれた。
 その月だったのかその前の月だったのか、2007年の秋のある土曜日に、私は仙台に行った。98年に亡くなった義父が使っていたミノルタX1というフイルムの一眼レフカメラを持って行った。ちょっと前に、横浜駅近くの中古カメラ店で5000円くらいで売っていたMCロッコール28mmのぼろぼろに使い込まれたレンズを付けていた。ミノルタX1は、そのときまで何年か使っていなかった。その前に使ったのは、まさに義理の父が亡くなってすぐに、気持ちとして弔い合戦のような思いを抱きながら、義理の父が通っていた会社のあった、横浜の阪東橋や日ノ出町あたりをスナップしたのだと思う。弔い合戦という気持ちを持つにいたったのは、亡くなる前に運び込まれた病院の医師の見立てやら処置やらになんとなく不満というのか、手違いがあったような感じが否めなかったからなのだが、詳細を書くようなことではない。
 仙台の駅に9時か、もしかしたらもっと早くに着いて、あれから六年以上も経っているから、この2014年初においてまだそういう路地が残っているのかわからないが、2007年にはまだ人が行きかうにも狭いような道に面して、小さな飲食店が連なったような、たとえば吉祥寺のハモニカ横丁に似たところが仙台には何か所かあったから、そういうところを気の向くままに歩いた。路地は、当然夜になるとともに、客を呼び寄せる場所で、だから私のように店も開いていない昼間にカメラを持ってそこを歩くなど、路地および飲食店経営者からすればやっかいな異物であって、大変に失礼な行為なのだろう。しかし斜めに差してくる晩秋の朝の陽射しが作る幾何学的な日向と日影の切り分けや、トイレの壁に描かれた青空の絵や、店じまいして降りているシャッターの郵便口に突っ込まれたダイレクトメールのなかにモナリザの絵が印刷されたものがあったり、するのを拾い集めるように写真を撮っていた。
 そうしてとぼとぼと歩いていると、そのうちにミノルタX1が一枚写真を撮ると、そのあとにクイックリターンミラーが戻らなくなった。その状態から復帰するには、どういうことかいまもう忘れてしまったが、なにかレンズを外してすぐにまた装着するとか、絞込みボタンを押してから何かをするとか、普通ではない手順を行えばなんとかなることをカメラをいじっているうちに発見した。それからは一コマ撮っては、面倒くさいその行為をして、それでまた一コマ撮って、ということになってしまった。
 やがて大きな公園に到着した。そこが西公園で、たしかきれいな着物を着た七歳なのだろう七五三の女の子を見かけたから、やはりあの仙台行きは11月だったのだろう。西公園の近くに神社があったのだろうか。たしかにネガの中には鳥居と七五三の客が写っている。
 そうして歩いてるうちに、私は閉館間近の旧仙台天文台に行きついたのだった。プラネタリウムを見た覚えはないのだが、この写真のようになんだかずいぶんと古めかしい天文を教えるための展示物がたくさんあって、それを写真に撮ったことはよく覚えているし、こうしてネガにも残っているのだった。
 ところで、私はこのときが三回目の仙台行きだったのではないかと思う。そして、この旧天文台で螺旋階段を上がって、職員の方が説明してくれるのを聴きながら、天文台のドームが開いたところに出来たソーセージ形の隙間から青空が見えたところとか、反射望遠鏡太陽黒点を見たこととか、そういうイベントに参加したことがあった。天文台はこの閉館間近の2007年秋に行っただけだと思うのだが、しかし、この職員さんの説明を聴いたドームでの写真はミノルタX1で撮ったネガには残ってなくて、コンパクトデジタルカメラで撮ったデータの方にあるのだった。
 2007年の秋、私はミノルタX1で写真を撮りながら仙台の街を歩き、だけど天文台のドームでだけは、いちいち何かイレギュラーな操作をしないとクイックリターンミラーが戻らないから速射が出来なくなっていたミノルタを使うのをあきらめ、一応持っていたコンパクトデジタルカメラをそのときだけは使った、と考えられるのだが、一方で、私は本当は二回、天文台に行っているとも思える。そう思い始めると、2007年よりもっと以前の年の春に、一人で仙台に行ったのだったが、そのときはミノルタオートコードを持っていて、6×6のネガフイルムで、仙台天文台の前にあった天球の形をしたような丸いジャングルジムを撮ったような気がするのだ。はっきり覚えていないのだが、だとすると、ミノルタX1を持っていた2007年の秋と、それより以前の年のミノルタオートコードを持っていた春の、二回、旧天文台に私は行っていたような気がしてくる。でも最初に行ったときには中に入らなかったかもしれない。二度目だけが中に入り、上の写真のような展示物を見たり撮ったりしたのちに、職員さんの説明を聞きながらドームに行ったような、そういう可能性が一番高いように思える。しかしそう思えるが、一方では、もしかしたら記憶が変化変容してしまい、そうでなかったかもしれないな、という感じもわずかにするのだった。最初に行ったときにも天文台に入り、とのときには職員さんの説明を聞いてドームに行った。オートコードを構えるような感じではなかったのでドームではデジカメを使ったと、そういう推理だ。そして2007年の二回目には展示物を写真に撮った。そういう可能性も捨てきれない。
 であれば、旧天文台が閉館したのが2007年であったとネットでちょちょいと調べたのと同様、コンパクトデジタルカメラのデータを捜して、そのEXIFデータから撮影年月日を見れば、どちらが正しいのかすぐに判るであろう。
 しかし、そうすることにさっきから私は若干の抵抗を覚えていて、写真データを調べていないのだった。せっかく記憶が時間の中で変化変容したのだから、その正確性を欠いてきた記憶を修復するような調査なんかせずに、
「年月日はたぶんこうだろう、でも可能性として別のこうだったのかもしれない。どっちかはっきりしないけど、少なくとも私は旧天文台で、展示物を見たり、ドームに行ったのだった」
という曖昧さが侵食してきた記憶を受け入れることが、本来的な人間の在り方なのだ。とかなんとか屁理屈こねながら。

 こんな気持ちになっているのは、先日読み終わった小島信夫著「ラヴ・レター」の文章の、相変わらず唯一無二の小島信夫の、くねくねと蛇がくねっていくようなお話にすっかり魅せられて、そういうのが遠因になっているのかもしれない。だいいち、読んでいる端からその中身を即刻忘れるように書かれていて、その忘れてしまう直前の印象が、ときに異様にさっぱりし、ときにねちねちとこだわり続け、それが複雑に絡み合っていて、しかも書いているそばからいま書いたことが掘り返されてくずれていくような、この奇妙さは一体なんなのだろうか。それで読み終わってすっかり魅せられている。

ラヴ・レター

ラヴ・レター