夢の場面


 25日の土曜日。午後、神田珈琲園で元須田塾のNMさんSIくんNCさん(正確には年末にご結婚されたとのことなのでNKさんなのかな)に写真を見てもらい、写真を見せてもらう。この写真を見たNCさんは、自分が三歳か四歳ころに見た怖い夢の、怖いから鮮明に覚えている夢の場面のようだと言った。
 NCさんの夢。両親と一緒に自家用車に乗って、この写真のような場所に連れて行かれ、そこで置いてきぼりにされてしまう。そうしてこの道を両親だけを乗せた車が走り去っていくのだそうだ。それはこの写真のような昼間ではなくって、夕暮れ時なのか、もっとずっと暗い景色なのだそうだが。
 写真が写真を見る人の記憶を呼び覚ます鍵のように働く。そういう写真の力を持っている写真を撮りたい、または提示したい、と思うことがあるから、NCさんの反応は嬉しいが、でも彼女にとってこの夢の記憶が呼びさまされることが歓迎すべきことだったかどうかは判らない。そこまでは「知ったことではない」のであるが。
 たとえば、音楽を聴いているときに、写真なんかよりずっと多彩にだろう、聴衆の心のなかでは様々なことが去来するのではないか。それがひどく悲しい気持ちで、そんな感情は呼びさまされたくないと思っても、音楽家は知ったことではない。そんなら聴かなければいいだけのことだ。

 年初から、このブログに載せている写真を見ればわかるように、数年前の写真を「あらためて」眺めては、気になった写真の全体もしくはときには部分を接写している。そういう行為にどう説明を付けるのかはさておき、そういう風に作った写真が自分としては当面のところ、まあ気に入っているからそういうことをしばらく(って言ってもせいぜいここ2週間か3週間かの話だが)続けているわけだろう。そこで今朝は、そういう風にして最近撮った(接写して少し加工した)写真を27枚持って行った。NCさんは、そういう私の写真を見て、解像度の低さやノイズからトイカメラの写真のようだと指摘した。それはその通りだろう。そして、写真を撮っているからか奥行のない平面的なところに違和感というかズレがあるとも指摘した。これは写真を真正面からきれいに接写しているのではないから水平線や垂直線がゆがんで台形になったり、あるいはカメラの超接写撮影時の歪曲のせいも加わっていることもあり、そういう風に見えるからその通りだろう。さらに彼女は、そういう写真の群は、そういう低画質とズレにより膜がかかったようになり、撮影者の気持ちみたいなことが隠されて見えにくいのではないかとも言ったのだと思う。もういちど確認しないとはっきりわからないが、たぶんそういうことを言っていたように私には聞こえた。すなわち叙情的から距離を置いた感じで、それをむしろ彼女は否定的に指摘したのだと思う。
 故意に距離を置いて自分を隠してしまっている「感じ」が私の気持ちにあるのかもしれない。こういうことは指摘されて気が付く。だからいろんな人に写真を見てもらうのは大変に重要なことでありがたい。

 このブログを読み返してさかのぼっていくと、今年になってから、過去の思い出話ばかり書いている。いや、もちろんそういうことは年齢的なこともたぶん含めて仕方がないが、それにしても思い出話ばかりだ。そういうこともそういう古い写真を接写している行為から導かれて文章が影響を受けているのかもしれないのだが、ではなぜ古い写真を接写しているかと言うと、その動機までは自分でもよく判らないのだ。

 自分の心の動きは、自分自身でもよく判らないところから起こっている、というのが何かを考える大前提であると思う。