早朝 湘南平


 休日であっても平日のように朝早く目が覚める。目が覚めてから思いついて、車で湘南平まで行ってみる。湘南平というのは神奈川県の相模湾沿いに並ぶ、東から西へと、鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市、大磯町、と続くうちの、平塚市と大磯町の境目あたりの丘陵地帯の小さな山の連なりの中で、そのてっぺんに「千畳敷」と言うような「頂上に比較的平たい土地が広くある」ところで、駐車場とレストハウスと小さな遊具のあるスペースと広場とテレビ塔がある。テレビ塔に上ると、上記の平塚市から東の方に連なる各市と相模湾の緩やかに湾曲した地形が見て取れる。
 ほぼ雨が上がった朝で、しかし等圧線が混んでいるのか、まだ天候は不安定で、猫の目のように日がさしたりまた風に乗ったような雨粒が落ちてきたりする。と、書いてみて、私は猫好きでもないし猫を身近に見たことも、抱いたり遊んだりしたこともないことに気付いた。だから「猫の目」がきょろきょろ変わるという比喩に使われるゆえんとなっているところも知らないのだ。
 学生時代に下宿していた大家さんの家があるときからシャム猫を飼いだした。子猫の頃は結構獰猛な感じで、何度か飛びつかれて引っかかれたが、それをこうして「獰猛」と感じたこと自体が猫嫌いの証明で、猫好きの人は、じゃれていてかわいい、と感じるのかもしれないな。
 駐車場に車を止めて、斜面に作られた、手入れされた林の中の小路を歩きだすと、水分をいっぱい含んだ空気に上ったばかりの太陽の光が斜めからあたり、初々しい緑や山吹の黄色の花、見上げればソメイヨシノが咲き、少なくとも烏や雀ではない鳥の声が聞こえてくる。こんなふうに、とあるありふれた朝のようだけれど、雨が上がった、まさに今日のこの時間を構成していた、人が物理量として把握できる気温とか気圧とか湿度とか太陽の方向とか、そんなことだけではほとんどなにも言い表せない無限の要素から成り立っているその場面というのは、ありふれてなんかいないわけで、いやなに、ありふれたという表現のベースには、そういうことに鈍感になって無限をひとまとめにした極大分類の視点に立った時にしか使えないようなことで、その視点位置から降りてしまえば、二度とないこと(時間や場面)の連続だ。そして、実際によく考えると、視点を鈍感にしても実際にはありふれたと感じていることの多くはありふれてなくて、こんな風な時間にこのように湘南平で私を包んでいた、上記の「水分をいっぱいに含んだ〜聞こえてくる」まで書いたようなところを「体験」した、「その場に属した」ってことが、そこに類似分類できるような「体験」や「場に属した」回数なんて、本当は人生において数度しかないような、貴重な朝だったに違いない。

 虹が出たり、天気雨が降ったり、さーっと晴れてその瞬間には陽の光で自分の体がすぐに温度を感じることができたり。

 帰路、デニーズでモーニングセットを食べる。