KYOTO GRAPHIE 二日目


京都芸術センターの元校庭を見下ろす。
http://www.kyotographie.jp/artists/201.html

 朝、どこかで朝食を食べたい。喫茶店の(あるいはカフェでもいいけど)トーストモーニングを食べたい。朝はいつものように六時頃に起きたから、スマホで、京都×喫茶×モーニングなどの検索を掛けてみた。今日の写真展めぐりのコース、最初は虎屋ギャラリーの瀧澤明子展の予定。今出川×烏丸から南に下ったところにある。一方、喫茶店を調べていたら、二年前だったかニセアカシア同人のIさんと行った「桃源郷」が8時営業開始で、どうやらトーストの朝食が食べられるようだった。桃源郷今出川どおりに近かったというだけの不確かな記憶で、写真展めぐりのスタートにちょうどいいと判断した。
 が、ちょっとした勘違いがあって、私は「桃源郷」は今出川×烏丸の近くだと思っていたのだが、今出川×堀川だった。よって、地下鉄今出川で降りたあとに、堀川通りまで少し歩くことになってしまう。
 その「桃源郷」では、トースト(バター)×サラダ(ポテトサラダ付き)×珈琲を頼んだ。少し時間が掛かると言われ、構わないですよと答え、読書中の吉田篤弘著「針が飛ぶ」を読み進める。
 「桃源郷」の珈琲はサイフォンで淹れる。サイフォンで淹れる珈琲を、私は鎌倉駅近くのカフェ・ロンディーノでよく飲む。よく飲むが、サイフォンがどういう原理で珈琲を作るのかは知らない。調べればすぐに判るのだろうが、知らないでいる。ということは、何ヶ月か前に、このブログに書いたような気がする。
 カウンターに座っている私のすぐ隣に、若い女性の二人連れが座っていて、彼女たちは珈琲サイフォンを初めて見たようだった。そして、早速にマスターに、これはどういうことなのか?と聞いている。するとマスターが、その原理をきわめてわかりやすく話したのだった。それがすっかり聞こえてきた。というか、聞こえてしまった。うーん、なんか、残念。


 瀧澤明子写真展WHERE WE BELONG。コロタイププリントによる。後半の枯草が覆う岬の先の神社へ(?)家族が通うような場面の、そこに感じる風や緊張や、時間の淀みや流れが、痛々しいほど。数枚の写真の並びは、テキストではないから具体性を伴わないけれど、ただ、読んだ物語の筋を忘れても印象だけが残ったような、象徴的な印象だけが漂う。それを感じることが写真を見るということなのだ。というような当たり前なのかもしれないことを痛感する。

『私にとって写真機は、一種のアンテナである。
手紙こそ、空からひらりと舞降りてこないものの、
日常の空気に漂っている、この世を去った命や置き去りにされたオブジェクトが、
「早く、急いで急いで」と、せっかちに言ってくる。
その声は、合図や信号となって、速度を増し、空中を切ってくる様だ。
「写真機」は、私の身体を遠り抜け、その速度に呼応するアンテナ。
絶え間ない死のささやきこそが、私に写真を撮る行為を促し、今更、生かしてくれているのだと感じる。』
(瀧澤明子Where We Belong アーチスト・ステイトメントより抜粋)
http://www.kyotographie.jp/artists/145.html


西野壮平氏作品を双眼鏡で鑑賞する。
http://www.kyotographie.jp/artists/92.html