黒い月


 夜、ランドマークプラザ(横浜みなとみらい)でトヨダヒトシの「黒い月」スライド上映を鑑賞する。

仕事の後、急いでランドマークプラザに駆け付ける。駆け付けると言ったって、電車の中では電車の速度に身を委ねるだけで、せいぜい、快速やら特急やらがきたら、混んでいようが乗り換える、という程度のことで、あとははらはらしているだけである。みなとみらい駅改札階からのすごく長いエスカレーターは右側を歩いて上ったし、その後も早足もしくは小走りで急いだとは言え。電車の速度に身を委ねてどうしょうもないのにはらはらしている、って言う状態は贔屓のチームの試合を応援している感じだが、贔屓のチームは運とか実力で勝ったり負けたりするが、電車はこっちの意を汲んで速度を今日だけ上げてはくれないからなぁ。
トヨダヒトシの「黒い月」のスライド上映会は7時からだったが、着いたのは7時15分くらいで、それでも会場には入れていただけた。人の目の暗視反応速度とISO感度が年齢に応じてどのくらい変わるのだろうか。昔は(若い頃は)いまよりも反応が早く、感度も高かったのだろうが、では具体的にどのくらい早く、どのくらい高感度だったのかは、データ数値や証明できる直結した事実の記憶はないからはっきりとはわからないが。でも、解像力が落ちたのは、昔買って読んでいた雑誌を本棚から数年ぶりで引っ張り出して読もうとしたら字が小さくて読めない、とか、満員電車の中でも読めていた文庫本がいまはピントの合う至近距離伸びてしまい、そこまで手が伸ばせる余裕がないので読まなくなったとか、そういうことから劣化は明確であり、解像力と至近距離性能が劣化したってことは、そこから類推するに暗視反応や感度も落ちているに違いない。そう言うことなのだろう、係りの人が自分のスマホの灯りをたよりに
後から入場した私を引率してくれて、通路から客席へ行く、その間もこの通路がどれくらいの幅で、どこまで続いて、何か置いてあったりするのか、など、何も見えないから、引率されてもさくさくとは付いて行けないし、席も、あそこに空席があります、と言われてもまったくわからない。
それですぐ目の前の席の方が横にずれてくださり、ほんとうに目の前のその席だけが見えたから、やっと席に座り安心した。みなさんありがとう。
先日、横浜美術館前の屋外広場で、トヨダヒトシのエレファントテイルと題されたスライド上映会を見たことは、このblogの何日か前の記事にも書いた。ニューヨークの1990年代初めの日々。女が去り、町が変わり、猫がやって来て、猫が死に、雨が降り、雨が止み、パーティーみたいなのがあり、何かを食べて飲んで、眠り、暴漢に襲われる。日常の繰り返しと思っていることも、結局は次々に変わっていき、ふと気が付くと一人だった。そんな物語を感じさせるような作品だった。今日の作品「黒い月」の舞台は日本である。スライド上映会の頭の15分は見られなかったから、情報不足の状態で鑑賞が始まる。エレファントテイルのときは、夜風と虫の声が気持ちの良い中での上映会で、すでに過去の思い出になったことは、剣呑な事実でもすでに懐かしい。懐かしいことは優しく回想できる、といった楽しみが感じられたが、今日の席はドアの近くで、そのドアの隙間から、冷房に関係して空気が動いているせいか、ずっとヒュウヒュウとすきま風の音がしている。その音はどこか、切迫した感じ、何かに追われているような緊迫感を誘うのだった。
スライドショーの舞台は日本で、ボクシングの試合、犬を連れた散歩、自宅の食卓、ハンセン病の国の施設、愛知県にあるらしい脳に障害にある方の施設、そういったくくりの写真が繰返しバラバラではなく、群になって、章を構成するように現れる。もちろんここに書いた括り以外の映像もあるけれど。エレファントテイルが、上記のような言葉で説明した内容とは裏腹に、どこかては明るく爽やかな感じが漂うのに対して、比較的には黒い月の方は、暗いのではなく振れ幅か少ない淡々とした暮らしを感じる。ハンセン病の国の施設や脳に障害のある人の施設に赴くと言う行動や動き、日常に属するのだろう桜新町だったかな、新玉川線の駅の写真や犬の散歩の写真などか混じっているのに、なのにずっと変化のない抑揚のない写真の繋がりを感じるのはトヨダさんの視線や感情に安易な抑揚がなく、完成された大人の、個人の価値観が根底にあるからなのか。そして一時間半ものあいだ、決定的瞬間もなく、物語性も希薄な写真を、ずっと見続けていても何も苦痛ではないのは何故なのか。たくさんのきゃくか、ほとんど物音も立てずに写真に見いっているのはどうしてなのか?最近はよく、いろんな写真展で、動画作品やスライドショー作品も展示上映されるが、そういうものの多くを見ていて、私は途中で中座したり、写真が切り替わるタイミングが早すぎる感じがしたり遅すぎると感じたりでイライラするのがほとんどなのに、そうならずに見ていられるのは何故なのか?
終了の合図は、スライドプロジェクターを操作しているトヨダヒトシ自身が「終わりです」と言うことによる。それから、作家はスクリーンの前までスライドプロジェクターの置かれた高い場所から降りてくる。何か話すように促されてマイクを握って立っているがなかなか話さないので、はらはらしてしまうが、言うべきことを誤解のないように話すための文章を考えてでもいたのだろうか、やがてポツポツと話し始めた。スライドショーという
形態で発表をしていることについては立ち止まれない、戻れない、という制約があることを良しとするというようなことを話された。
帰りに札幌で出されているphotonという新聞のような形態のペーパーを買っていく。2012年に出ている第七号で、トヨダヒトシインタビューが載っている。そこにはこんなことも書いてあった。
『写真と写真の間に横たわる時間の中には、撮らなかったことや撮ることのできなかったことがあって、でもそれは決してゼロではないんです。撮らないときも、真剣に「今は撮らない」と思って撮っていないですから。(中略)撮らないことも、写真なのではないかと思っています。
言葉だって、口に出された言葉だけが全てではないですよね。(中略)やはり自分が見せたいのは、写真そのものではなく、写真が消えていくところなんです。』
次回は27日、象の鼻テラス にて、だそうです。