鎌倉


 このブログの今年の春の日記を読んでいると、早起きして、西鎌倉の広町の森あたりを散策し、午前のうちには家に帰って来るような休日の過ごし方をしていたことを思い出す。ほんの数ヶ月前のことだけれど、そうだ、この春には母のことなどでちょっとごたごたしていて午後になると用事があることが多かったのだ。それでも休日になにか好きなこと、というのか、リフレッシュできること、というのか、その目的は自分でも明確には理解していなかったけれども、すなわちそうして一人の時間を持つことが局面を抜けるために必要なことだと直感していたのかもしれない。
 あの四月や五月のころと、この九月の終わりを比べると、春分の日は三月だから、すでに今の方が日が短い。四月や五月の方が朝が早く来て、昼間も長かった。そういうこともあるのかもしれないが、人というものが四季で感じることって、国語や文学、音楽や、あるいは世の中のいろいろなところでそうであるべきとして仕掛けられる「らしさ」により後天的に、極端な言い方をすると強制的に、類型化しているように感じるけれど、やはりそれのそのまた根底には、人という動物の中に刷り込まれた季節への向き合い方、季節をどう過ごせば個やグループや種の存続を維持できるかというようなことがちゃんとあって、それで、春のあのころのように浮き立った感じもないような気がするし、だから、早起きしても広町の森に行こうという、身軽な行動意欲が湧かない。湧かないが、奮い立って、この秋分の日の休日には、7時ころに家を出て、春のころのように、行ってみた。広町の森には、まだまだ夏草がたくさん生い茂っていたし、木々の濃い緑も真夏のようだった。それでも、これは自分の中の思い込みなのかもしれないが、そのエネルギーがもう少しで切れるという前兆をはらんでいるようにも見える。蜘蛛の巣がたくさんあった。蕎麦の花が咲いていた。春よりも野の花は少なかった。なにより出会う人がいなかった。一見すると真夏と変わらない風景に思えるが、もしここに7月に撮った写真があって、実際に見比べるといろいろなところに7月の季節の「若さ」と9月の季節の「疲れ」があるのだろう。そもそもこんな風に季節が、春から始まって冬で一巡するような感じを持つように出来ているのはどうしてなのだろうか。
 七里ガ浜の住宅街に抜けるちょっとした上り坂を行くと、漆の畑の先で、鳥の声に包まれた。そこでしばらくじっと立ち尽くして、その音を五感の全部で吸い込みたいと思ったが、そういう集中をすることも難しくて、そのうちに私はなにか自分の暮らしの中で、当面当たっている小さな課題のようなことを考え始めてしまう。
 七里ガ浜から江ノ電鎌倉駅は。ロンディーノでツナトーストと珈琲。読みかけの文庫はオースン・スコット・カード著「無伴奏ソナタ」(早川文庫SF)に収録された「タイムリッド」という短編を読み進む。珈琲をもう一杯、おかわりする。
 鎌倉農協即売所へ行き、野菜を眺める。白いナスとか。鎌倉国宝館では「国宝 鶴岡八幡宮古神宝」展。
 八幡宮の境内でツクツクボウシの声を聞いた。今年最後に聞く蝉の声かもしれないな、と思った。