由比ヶ浜 森山大道講演会


 たとえばこの写真に写っている人の配置を考察するに、一番左に写っていて、画面の左に向かって歩いている男性が「動きがありすぎ」で「方向もイマイチ」なのだ。私の感じとして。この男性は右を向いて、かつただ立っていて欲しい。それ以外はまずまずな感じがする。私の感じとして。砂浜に出ている「突堤」の中央に置かれた荷物もちょっと邪魔かもしれず、この位置にも人がいたらもっと良かった。ここ(由比ヶ浜)で、立て続けに十枚くらいを撮ったけれど、他の九枚はこれよりもっと人の位置が私の感じとして「崩れている」。しかしだ、こんな風な配置の良し悪しの基準はいつどうやって私の中に基準のように出来上がっているのか?それ自体、既成概念なのであるから、それに沿ってこっちがいいとかこっちがイマイチとかやっていること自体、その意味は何なのか?別にこの場所に数十分とか数時間ねばっていたわけでもなく、通り過ぎた当たり前の時間にたまたま私の前に展開した十枚に過ぎず、例えば一枚の絵を完成させるとか、一つの音楽を演奏する、といった行為の時間の中で画家や音楽家がその行為を極める努力や、考えることや(行為の完成度を上げるために考えるというだけではなく、もっとその個人の生きているすべての行為としての思考のようなこと)そういう創作と比べると、写真の瞬間性と多産性(秒間数コマから十数コマでも撮れてしまう)は、絵を描くこと、音楽を演奏すること、あるいは詩を作るとか小説を書くとかでもいいけど、そういう創造行為と比べると相当に異質で、しかも大したことではない、もっと言ってしまえば劣っているように思える。

 それを覆すのは、ずっと撮り続けることと、大量に撮ることなのかもしれない。一枚の絵を描くのにかかった秒数くらい沢山の写真を撮ること。「十年ひと昔」という言葉に従えば、自分の残してきた写真が、それ自体「昔」に属するくらい、すなわち少なくとも十年以上は長く写真を残し続けることで初めて他の創造行為に対抗できるのかもしれない。
 そうではない道筋もあるだろう。たとえばコンセプチャルな写真は、写真を初めてすぐの人でもコンセプトの秀逸性で評価されるだろう。しかし、そのコンセプトに頼る以上、もしかしたら文学の一種(それもフィクションというより多くはノンフィクション)であり、言葉でなくたまたま映像を使っているというだけのことかもしれない。上に書いた「多作×昔からずっと撮ってきた」という写真価値とは別種だ。
「多作×ずっと」を写真分類1の価値とし、「コンセプトの秀逸性」を写真分類2(文学的)の価値とすると、いま雑誌グラビアとか報道とかではなく、表現行為でかつ経済活動に乗っかれるのはその多くが写真分類2からであり、写真分類1からの登場はきわめて難しいのではないだろうか。なにしろ十年も待ってられないし。
 今日、1/17には鎌倉を散歩したあとに、品川まで遠野物語2014に合わせて開催された森山大道講演会を聞きに行った。森山大道の中にはニエプスにはじまる(言い方はおおげさだが)「ほとんどすべての」世の中に残された写真映像が(これもおおげさだが)無限に近く蓄積されていて、すなわち森山さんは写真の時間の化身かもしれない。だから彼の目がストリートで見つけるすべての「今この瞬間の場面」には、過去の写真映像の記憶がトレーシングペーパーを重ねるように現れて彼の撮影を後押ししている。対談相手の写真評論家の清水穣氏が森山大道写真集「ハワイ」について
『森山さんはハワイに行ったのは初めてだったのに、それにもかかわらず記憶の写真集であって、森山の一枚の写真から複数の写真へつながっている』
と解説していたのが印象に残った。だから森山大道の中の写真の記憶の積み重なった写真の地層の、その一番底にあるニエプスのサンルゥの窓の写真への憧れ(でいいのかな?)を彼は語りかつ文章にも残しているのだろう。
 講演会を聞きながら、仮に上に描いたような乱暴な二分をするとすれば写真分類1から現れて経済活動に乗っているのは稀有な人だと思う。あるいは、森山さんの世代が写真分類1からのスターの登場が許された最後、あるいはもしかしたら唯一の世代だったのかもしれない。社会が個を認めて受け入れる包容力が細ってしまい、画一的な価値感だけが「流行」としてクローズアップされ、かつ変容していってしまったら、悲しいですね。
 久々に本棚から「サン・ルゥへの手紙」の写真集を出してきて眺めてみようかな。

音楽談義 Music Conversations (ele-king books)

音楽談義 Music Conversations (ele-king books)

鎌倉たらば書房でふと手にして、サイン本だったこともあり、買ってしまいました。