ホイッスラー


 横浜美術館でホイッスラー展を見て来た。私は、自分のセンサーを白紙にしたところから、多くは視覚に入ってくるホイッスラーの絵を見て、そこから自分の過去の記憶やらを刺激されてなにかを感じる、という素直な鑑賞ができなくって、絵をみていてもそこから必ず写真のことを考えてしまうように「なってしまっている」。小さなドライポイントやエッチングによるパリやロンドンの波止場の街の風景を描いたシリーズを順に見ていくとモノクロームの丹精な画面構成を持った写真集をめくっているようだし、あるいはグラデーション豊かなプリントが目の前にあるのは版画なのに浮かんでしまう。夜景の油絵の海面や川面にただよう町の灯りのゆらぎはスローシャッターでぶれたように描かれていると感じてしまう。あるいは動きのある人物がでは、もっとも動いているであろう掌や足先がより「ぶれた」ように描かれていて、写真のように思える。ホイッスラーの絵は、このように絵の見方を写真に「侵されている」私が見ると、写真展を見ているかのようで、だからとても面白くて興奮してしまった。水彩で街の何気ない風景をちょこちょこっと(って感じるように)描かれた写真・・・じゃなくって絵は、街をうろついていて色や人の「配置」が絶妙に写された品のよいスナップのようだ。
 しかし、こんな感じ方は間違っていて、絵の方が先に構図の多彩さを発見し、写真がそれを真似て世の中を写し取り始めたのだろうか?そんなことを誰か研究しているとしたら教えてほしい。
 写真はホイッスラー展のあとにずっと歩いて行った横浜の街にあった古そうな雑居ビルの廊下です。長者町三丁目共同ビルだったかな。五丁目だったかもしれない。