王国


東京都近代美術館で奈良原一高「王国」を、ワタリウム美術館石川直樹×奈良美智「ここより北へ」を、明治神宮前交差点の近くにできたギャラリーAMでは森山大道「DAZAI」を、以上三つの写真展を観て回る。

「王国」は、1950年代後半に、北海道の修道院と和歌山の女囚刑務所で撮られた二つの章で構成されている。解説によれば、単なるドキュメントとは一線を画し、人間が閉ざされた中で極限の生活をしている修道院と刑務所を撮ることで、写真家である奈良原自身が自己を見詰める行為を写真に提示している、と言うことになるらしい。
『奈良原は社会的関心だけでなく内的主観を作品にもちこむパーソナルドキュメントという新しい手法を用いて戦後に写真家として出発した』
とあった。
パーソナルドキュメントの効果なのかはわからないが、王国には夏の、あるいは夏の終わりの、乾いた空気が満ちていると感じた。もしかしたら、何枚かある畑の収穫の写真を見ていて、そう感じたのが全体を覆う感想に拡大したのかもしれないかな。いや、最初のボケた牛の写真や、他の人物のいない写真にも同じ感じを持った。夏の終わり、どこか、避暑に来てみたが、人気が少ないその場所で一日が過ぎていく。風も、空気も、青空も、気温も、何もかもが気持ちがよい。にもかかわらず、完全にリラックスが出来ない焦燥感がある。それは、環境が私に向けて何かを試しているようだ。誰かが、隠れ蓑になってくれる誰かが、いない。時間を適当に過ごすための道具もない。軽薄でその場しのぎでも笑わせてくれる相手がいない。ごまかしの効かない自由時間の中で自分はどうやって自分の時間を過ごし、満足するのか。さぁ、贅沢にも完全フリーな晩夏の一日かあるのだから。そういうときが仮にあっても、悠々とその時間を過ごせないかもしれない。夏の一日は、太陽が回り、濃い影が動き、朝には朝の蝉が鳴き、夕方には夕方の蝉が鳴き、昼間はずっと吹いていた海風は、夕凪で止まる。そして私は自由を与えられて却って戸惑ってしまう。そういうときが仮にあったとして、そのときに自分が見て、その焦燥感と共に記憶した風景、それが「王国」の修道院の章には写っていた。そんな感想だ。
もし、これがパーソナルドキュメントなるものではなく、社会派のドキュメントだとしたら、写真家は何を撮るのだろうか?奈良原とはどう違う写真を残すのだろう。例えば、誰か一人の主人公を立てて、その主人公の一日を追うように撮るだろうか。もう少し望遠のレンズでその彼の表情を、特に目にピントを持ってきて背景をぼかして撮るだろうか。そして、そういう人物写真の合間に少しは空や畑や海の写真を、リズムを変えるとか、一呼吸挟むとかの目的で差し入れるかもしれない。そして、その彼がこの修道院に来るまでの物語を文章で添える。そんな風なのではないだろうか。
鑑賞者である私には、晩夏の焦燥感と乾いた風が思い起こされた。そう言う作用をもたらすから、これは、ドキュメントではなくパーソナルドキュメントと呼ばれたのだろうか。
50年代の終わりにこの作品の写真展は多くの客の動員と、評論家からの絶賛があったようだ。そこに同時代で立ち会っていたかったな。
実は「王国」は他の企画展や、だいぶ前に東京都写真美術館で開催された奈良原の大規模展でも見たことがあったのだか、今回はやけに心が掻き立てられた。何故かな。