昭和の市井の街並みや建物は消えるしかないのか


昨日の土曜日と同じく、快晴の日差しに誘われるように、カメラをぶら下げて出掛ける。今日は一人。自家用車ではなく、路線バスと電車を乗り継いで鎌倉へ。遅い朝食と早い昼食を兼ねるように、鎌倉駅の江の電ホームにくっつくように60年代からずっとあるカフェ・ロンディーノへ行き、スパゲッティと珈琲を頼む。この店のスパゲッティと言うのは、即ち、あの昭和の喫茶店が出していた太い柔らかい麺のナポリタンであり、昭和のナポリタンを食べたいと言う要望に対してはほぼ満額回答である。具があまりにも少ない点を除くと。まさか江の電が駅の大規模再開発なんて考えてないよな?もしもそんなつまらんことを考えてしまうとひとたまりもなく消えてしまう店であろう。
近代建築の保存と言えば大上段に、東京駅の辰野金吾の建物を復元保存するとか、丸の内のビル街の再開発では、建物のファザードだけ、即ち表の面の皮一枚は保存してその実、新しい建物は高層の最新のビルだったりするものの、まあそれでも保存しようと言う努力や成果があるものだが、市井の飲み屋街、戦後の駅前マーケットから発展したような迷路の商店街、横丁、あるいはそのときどきの最先端の流行だった団地や、一般の住宅、なんかは特に保存の動きもないままにどんどんと消えていく。一般住宅なんかは、60年代の一般的木造住居から70年代、80年代、90年代、と、新しい建材の登場やデザイン面での流行などで見る人が見れば何年頃のものか、すぐわかるだろう。しかし、そう言うものは保存されない。例えば80年代から90年代に藤森照信さんや赤瀬川さんが建築探偵やトマソンでそう言う市井の様々にスポットを当てたが、ではあのときに藤森さんが、これは重要で見事な商店建築だと指摘した看板建築が、文化遺産として登録されたり、明治村ならぬ昭和村(があったとして)保存移築されたりは、多分してない。そのものでなく、張りぼての復元模型ならば、以前千葉県の佐倉市にある国立歴史民族博物館に原寸大の法善寺横丁が「現代」のコーナーに作られていた。今はないのではないか。ついでに法善寺横丁も二度くらい火事が起きたけれどいまは、どうなんだろう?
下北沢もだいぶ再開発が進んだ。新宿のゴールデン街はどうなんだろうか、ときどき取り壊しの噂を聞くけれど。行政は、東京駅やそれ以外の大きな保存建築ビルだけでなく、今まさにどんどん消えている昭和の、それも戦後の高度成長期の、市井の建築にこそ目を向けてそれらをやたらと再開発するのではなく残す方策を考えてもいいのではなかろうか。
これは、例えば町家を再生するとか古い倉庫の建物をそのままスタジオやギャラリーとして利用することとは、ちょっと違う。そう言うのが当初の建物の目的を変更して延命をはかるのにたいして、ただそのまま使い続けることを妨げるものを規制する、と言う提案だ。
しかし、こんな風に私が思い付きで書いたことなんて、もう以前にどこかで何度も大勢の人が考えたに違いない。実際には慈善事業ではあるまいし、特に個人の住宅などは数十年でがたが来たら直したり建て替えたりが当たり前。そんなことを制限された日にはそこに住んでいる人も迷惑だ。さらに、そんな制限、保存と言う名前の制限は、壊して設計して新築する、にかかわるすべての経済活動を阻害する。この経済的な理由と言うのが非常な力で働くわけだ。
駅前マーケットやゴールデン街が、横浜中華街のようにその区画全体が特徴的な街として保存されればそれは観光的な価値を生むかもしれないが、そんなことしなくてもまっさらにして新しいビルに飲み屋街を入れても客は来るのだ。多分。その方が大家や地主にとっては維持費もかからず、光熱費も安く、地震やらの天災や火事やらの人災にも強い。資金さえあればさっさと新しくしたいだろう。
こう考えてくると、私のような五十代のじじぃが「懐かしさ」と言うこれはこれで結構頑強な思いから「そう言う街角を保存して欲しい、しかも、そのままなにも変えずに」と思っても、他の価値観で今を生き延びるほとんどの人や経済にとってはそんなのは全く馬鹿げた提案にしかならない。
さらに半世紀が経っても奇跡的にそう言うところが残っていたら、それではじめてそこに今以上の観光的な価値が生じて経済的な妥当性が発生し、すると保存の機運が起きるのかもしれない。金沢や角館や、他にもあるだろうの武家屋敷街のように。
上に横浜中華街のように、とか書いたけど中華街の街区も中華っぽさを残しつつどんどんと建物は建て変わりいまや、数十年前の建物はほとんどないのだ。冬の日差しの入る、客のいない店内のテーブルで、中国のご老人二人が、烏龍茶を飲みながらなにやら四方山話をしているところを、1980年くらいに見たことがあったが、今はそんな光景はない。
鎌倉駅のカフェ・ロンディーノてスパゲッティを食べながら、そんな屁理屈による提案と、その提案の妥当性のなさと、諦めるしかないようだと言うことを考えた。しかし、こんなのはね、五十代のおっさんの、ただ単純に懐かしさに根差した、変えないで欲しい、と言う気持ちがまずあって、そこから始まった屁理屈に過ぎないのです。それが叶わず、いつの時代も初老のおっさんはため息と諦観に捕らわれ、ますます老いて行くのだろう。
ま、振り返るまでもなく、私が鎌倉に行くときの基本コースは、懐かしさを訪ねてタイプなのだ。駅を江の電側に降りて、カフェ・ロンディーノに行き、次いで御成小の旧講堂などを見上け、校庭開放の日ならば気紛れに校庭へ行き、こんな写真のように同年代のおじさんが少年野球の試合後のグラウンドにトンボをかけるのを見たりする。由比ヶ浜通りに出ると土屋鞄ショールームにもよったりもかするが、それよりも公文堂古書店は外せない。さらに鎌倉連売で野菜を眺め、ときには名前の知らない珍しげな大根や人参、大好きな芽キャベツを買ったりもする。同じ連売の屋根の下にあるパン屋であんパンを買ってお土産にしたり歩きながらかじったりも。パタゴニアをのぞき、信号を戻り、丸七商店も入ってる店がすっかり変わったな、と思いながらコロッケを買ったりもする。そんな風に駅の回りをうろつく定番スポットの多くは、懐かしい昔からあるところなのだった。
カフェ・ロンディーノ、私があと十年かもうちょっとか、たまに鎌倉を散歩することが出来るあいだ、このままであって欲しいものだ。