古橋宏之写真展「水を呼ぶ −Priming Water−」


 銀座のニコンサロンで古橋宏之写真展「水を呼ぶ」を鑑賞。展示の冒頭に掲げられた古橋さんの文章のうちの後段部分は以下の通り。

 『川原に下りる。向きや強さの異なる風が間断なく吹いていて、なかなか思うように撮影ができない。手持ちぶさたでカメラを移動させていると、やがて疲れて馬鹿馬鹿しくなってしまうのだけれども、なにを撮ろうとしていたのか分からなくなってしまう。仕方なく適当な場所にカメラを据えて、フイルムホルダーを取り付ける。それからレリーズを持ったまま、漫然と空間を眺めながら草木の葉が揺れなくなる数瞬を待つ。三脚にくくりつけてある雨よけのビニール傘をぼこぼこと叩きながら水は落ちてくる。
 雨の日。眼の前を充たしている雨は、対象だけれども対象でないみたいだ。個々の事物や運動に気をとられないよう、ぼんやりと雨を眺めるようにシャッターを押したい。どうしてここなのか、うまく説明ができない場所でも写真は作られてしまう。対象を意識しなくても、ものの繋がりや空間の重なりだけで写真は形成される、そんな写真の成り立ち方を面白いと思っている。』

 いい写真を撮ろう、と思うときの「いい」とは何か?一番わかりやすく、でも、もしかしたら一番稚拙なのか、お手本通りの写真を撮ると言う行為で、作法を習うということに似ている気がする。作法をマスターして免許皆伝の指南役になれば、それが次ステップの免許のようになって、はじめて作法を破った表現を提示することが許されて、それは作法通りに「できる」というお墨付きが尊敬になって、はじめて新しいことが許されるってことだから、もしかしたらひどく日本的な「塔」の構造なのかもしれない。作法というのはテクニック書通りの再現なのだろうから、構図とか露出とかシャッターチャンスというようなことが絡んでくることになるが、世の中には天邪鬼の人たちがいて、免許皆伝など待たずとも、決め構図、決め露出、決めシャッターチャンスの「決め」を全部裏切ってやろうと思うことだろう。いや、天邪鬼などと書いているが、そうではなくて、それこそが唯一の挑戦だ。
 そういうことを考えるときに、決め構図を逃れる手段として、ノーファインダーとか、何秒ごとに必ずシャッターを切るとか、車や電車の停まったときの車窓風景とか、なにか自分の意思をのぞいて、ある決まりに委ねる、みたいなことを考える。これって実はけっこう誰でも、作法から抜けたいと思うと高い確率でみんなが考えることなのではないか。
 古橋さんの文章を読んでいると、歩いて疲れて適当な場所に三脚をすえ、雨を眺めるようにシャッターを切る、とある。すなわち雨であることは、雨に濡れた被写体のしっとりとした感じを撮りたい、というよりも、疲れるための雨でありどこもみないための代替被写体としての「空間の雨」ということだろうか。
 雨の日を選ぶことこそしたことはないが、この「委ねる」写真行為は何度かトライしたい気もしたことがあり、だからこの後段の文章にはとても共感してしまい、かつ、
「対象だけれども対象でないみたいだ」
というところにグサッと来てしまった。なので古橋さんに許可をもらってこの文章を写真に撮ってきて、ここに転載しています。

 古橋さんと話したところでは、長靴を履いて、河川敷の道なき道へ踏み込むそうである。だけれどもやがて市の清掃が入り生い茂った雑草はすべて刈られてしまう、とか。だからこの写真展の写真は二か月ほどのあいだだけそこにあった光景だったそうだ。
 写真を見ていると、セレクトや展示に至るまで、撮るときに努力した「対象を選ばない努力」「シャッターチャンスの定義を覆すような写真行為」を、さらに鑑賞者に伝えるまでの各過程でどうするかも難しいことだと思う。
 どれか一枚の写真を決めて、その前にしつこく立っていて、すべてを受け入れる感じ、能動的にその写真を読み取ろうとはしない感じで眺める、そういう鑑賞をしていると、ふっと雨を含んだ湿った空気が思い出された気がする。それだけのことだけれど、それでこの写真の「群」としての成り立ちの意味の欠片が、浮かび上がり納得できる。
 http://www.furuhashi-hiroyuki.com/でDMの写真が見られます。
 尚、ニセアカシア発行所では本展に合わせて、ニセアカシア同人の松本さんの編集による写真集を制作しています。

 古橋さんが須田塾に持ってきていたカラーのファミリーフォトシリーズも、また見たいものだ。

 銀座ニコンサロンの隣の工事現場を囲う壁に本城直希氏のものと思われる写真、逆あおりミニチュア効果の東京の写真がたくさん貼ってある。それを背景に写真を撮るのが結構面白かった。