須田一政トークショー@禅フォトギャラリー


 昨日の土曜日、2/28に禅フォトギャラリーで須田さんのトークショーを聴いた。これは最近出版された釜ヶ崎を撮った写真集に合わせて行われた展示会場でのトークショー。以下、かっこ内は私の補足です。

『最近は一種の心象風景。自分のインナーにあることが(そこを写真に撮りたいとく気持ちを)誘発し、その場に自分のインナーの心が漂っているところに興味が行く。昔のネガもそう(今になって心象風景を撮ったように)見えて新鮮。
(今回の写真展のDM)カードに選ばれた写真が、女の人の足なのが嬉しい。僥倖。最近、銀座で早朝にマネキンの足を撮っている。
 今回の釜ヶ崎は、モデルさんを初めて使った。釜ヶ崎を撮るのが危ないのでそれを避けるためという意味もあってモデルをお願いした。モデルをお願いするとき、最近は女性の足に興味が向くので足を出した服で来てほしいとリクエストをしたのだけれど、そうしたらどういう服で来るのかが気になって、撮影に行く前から 頭の中の妄想がぐるぐるしてしまった。
 前みたいな撮り方はしなくなった。すなわち、街を行き交う人は見なくなった。その一方で、同じものばかり撮っている。36枚とかブローにならば12枚、同じとこを同じアングルで、同じものを撮っている。その写真を見て、自己検証することに、興味がある。なんでここを撮ったのか?を検証する。珍しい物とか人とか風景とか言う具体的な被写体にカメラを向けるのではなく、自分の精神のありようがシャッターチャンス。
 (写真を選ぶことについても、いまは)基本的に他力で、人が選んだ自分の写真を見ると、霧が晴れるように実体が見えて来る感じ。今の自分の心が。気持ちでなくて心。自分がなぜそこに惹かれるのか?が判ると、ときに、自分のコンタクトを見て唖然とする。
 千葉では朝3時に車で撮影に出る。千葉の深夜だから遠くまで、ずっと撮っている雀島とかまで行く。日の出を待って車の中でボーとしている時間がいい。エネルギーを溜めている感じがして、しあわせ。
 最近免停になった期間があったのでどこにも行けないから、自分の撮った写真を毎日見返していた。ところが、その日の気分のありようでセレクションが違う。昨日と今日で全く違う。だから、自分ではなんにも決まらない。そこで、人に決めてもらう。昔は考えられなかったが、今はその方が良い。
 (自分の写真に対する)興味がなくなったのではなく、拡散しながらも興味がある。一度ピントが合ってからまたボケて拡散していくような感じ。自己診断みたいなそう言うこと(自分の心のありようを第三者的に見つめて分析すること)に興味がある。
 雀島はそこにいかないと写真行為が始まらない感じの、イコンとしての雀島になっている。呪われている?
 カメラが変わると何かが変わる気がする、それすら妄想なのだが、いまは手を伸ばしてフレームを決めれば、写真を撮らなくてもそれでいいのかもしれない。でもコンタクトを見直すからまだ写真への執念が残っている。だけど気分がふわふわする。車はいい。電車はいろんな人が見えてしまって、妄想の時間がない(妄想が出来にくい)。
 (さきほどの話と相反しているようだが)神田で出勤のピークの時間に歩いているサラリーマンの人たちの表情(無表情という表情)に興味が出てきた。ある場所たとえば駅から別の場所たとえば会社へ移動しているときの表情に。ムービー的な。それか、他には犬の目。飼い主を待ってる犬の目が気になる。
 でもそういう千葉や神田の撮影と違って、2014年の釜ヶ崎はお題を与えられた形だからそういう撮影ではなかった。まとめるときに、かみさんが2000年にも釜ヶ崎を撮ったフイルムが未発表のままあることを指摘して、それで思い出したから、見てみたら、もう自分が撮った写真であることは忘れていて、初めて見るような感じで、なかなかいい。自分の写真に感心したりして。2014年に2000年の釜ヶ崎の写真を見ると、そこに写っているのに当時は気にも留めなかったモノから妄想が膨らむようになった。リカちゃんや、住んでいるおじさんが貼っているエロ写真とかに。』 

http://www.shashasha.co/jp/blog/post/issei-suda-in-kamagasaki/

以上、聞きながらスマホにメモした内容でした。