悲観的写真論もしくは戯言か


 ひとつ前の日のブログに引用した昭和37年に書かれた「現代の写真」からの文章にあるドラマツルギーって単語の意味を調べてみたら「ドラマの製作手法。ドラマトゥルギーとも。起承転結の、メリハリの付け方から、細かな人物設定にいたるまで。その方策。テキスト・レベルでの、既なる演出。」と書かれていた。これは、このhatenaブログの機能で、文章中に使われた下線がある単語は、その単語の意味の解説があるページに飛べるので、ちょちょいと調べられるのである。こういうのが便利というのか、実は「良くない」ことなのかなど、よくよく考えてみるべきことかもしれないが、今日はそっちには行かない。
 ブレッソンは決定的瞬間として、目の前で展開する光景というのかリアルな「今」の中から、動的というか変化しているいろんな状況をずっと「監視」していて、それらの刻々変化する光景のある一瞬に、何故だか人間の知覚にとって「魅力的な」すなわち、上記のドラマツルギーの引用からすると「メリハリが効いて、その一枚の写真から、起承転結のある「物語」を連想させるような」偶然に発生している光景を見逃さずにとらえている。そういう偶然を掬いだすことを、それまでの規準で写真価値を定義していた人たちは激しく批判した、と、こういうことだが、しかし「一瞬を掬いだす」とか「目の前の光景から構図としてある枠の範囲を切り取る」ということは、ちゃんと考えると、意思的であり、偶然に委ねているようでいて用意周到であると言えるのではないか。すなわち、積極的に写真に撮られる被写体を「作り上げる」ということからすれば偶然のように見えるが、「作り上げる」行為が「掬い上げるために待つ行為」となっただけで、フレームワークの重要性は維持されているし、実はブレッソンを批判したその時点での「確立した規準主義者」と「新進のスナップ主義者」とのあいだに、「大した差はない」、ともに誰かの掌の上で右往左往しながら小さな世界であたふた言い合ったりしているだけだったのではないか、などとも思ったりしてしまう。
 そして、この本で昭和37年時点の重森弘淹が、クラインはフレームの外への意識があり、ときにはノーファインダーでありアレブレを許容することで、視点を広げたというようなことを書いているが、ではクラインがカメラを向けた方向には写真家の意思があったことは明確で(ブルックリンの子供たちを撮って、そこからさまざまな何かを提示しようとした)、だとするとこれだって、結局のところ、どの瞬間をどういう枠取りで撮ったか、ということのちょっとした差を大げさに机上に持ち出して喧々諤々と議論をしている「程度のこと」なのではないか、などとも考えてしまう。なんだか技術論の差から変革を論じても、すでにそれが過去になっているからかもしれないが、なんだかどれもこれも大したことではない気がしてしまうのは間違っているのか。では、大したことだ!と思えることは何なのか?と言えば、それも判らない。もしかしたら写真が発明されて、ニエプスが実験室の窓から撮った一枚が、その後に続くすべての写真を包含していて、あの一枚で写真は「終えん」している、いや「終えん」があんまりなら「完結」している、とも言ってしまえるのか。それが唯一の「大それたこと」だったのかもしれない。
 同時代を背景として、人として写真家というよりその同時代の「世の中の見方」を最先端にどう現したかという部分にちょっとした、新しいアイデアを取り入れたか、それが他よりちょっとでも早かったか、という経済価値同等の表現の先進性の争いのようなことのポールポジションを、名前が残った写真家が獲得してきただけで、彼らは唯一無二ではなくて、二番手三番手とタッチの差で競り合いに勝ってきた策略家かもしれないし。
 そうして時間軸とともに写真の変遷を並べると、新しいものが旧いものを置き換えてきているように書かれていくわけだが、実際には「旧い」ではなく「すでににあった」ところに「新しい」ものが付け加わっていった、ということで、混沌として多様な表現の可能性が開拓拡大され、容認されてきた、ということだろう。だから現代では、あまりに多くの事例のなかで窒息気味になって拡大された中から「旧い」「新しい」関係なく、既存の手法を掘り出したり組み合わせたり懐古したりまぜこぜにしたりしながら、表現をしている感じがあり、それは写真にとどまらずすべての表現領域でもありそうなことで、過去の音源をコラージュするような音楽行為などもそうかもしれない。
 しかし、こういうことは実はいつの時代も「もう新しいものは出尽くした」と感じるわけで、そういう悲嘆や悲観を乗り越えて、またぞろ新しいものが出てきた、というのが歴史でもあるのだろう。
 とかなんとか、日曜日の朝っから(これを書いているのは8日日曜です)暴論を吐いていて、こんなのは、またすぐに別のことを考えるわけで、まさにただの瞬間的で構図も決めていないような戯言でございます。