新幹線が横切っていく

 
 読書中の杉田敦著「ナノ・ソート」にウォルフガング・ティルマンスを取り上げた章があって、そのなかには写真集「コンコルド」についても記されている。著者は「ティルマンスは著名な写真家であり、特権的な撮影許可を得て、普通の人々とは異なる条件からコンコルドを撮影することも可能なのだが、にもかかわらず、そうせずに、一般の人々が同じように実践できる立場にとどまり続けてコンコルドを撮影した」という点に注目していて、そういう撮影を行った動機として「職業写真家ではない普通の人々の写真実践に接近し、それと見分けがつかないようなものになり切るということ」、そういう「意思」があったとしている。

 ティルマンスコンコルドの写真集、数年前まで新刊で写真集をたくさん置いてある書店ではよく見かけたのに、いま調べると新刊書は品切れになっていて、中古価格も二万円近くまで高騰しているのをアマゾンで検索して知って、びっくりした。買っておけばよかったな・・・
 まあ、それはさておき、この写真集をめくったときの私の感想は、子供が空を飛んでいくコンコルドを見て「あ、コンコルド!」と言うような単純な憧れの感情をそのまま写真集にしたような、だからとっても「素敵な」写真集だと言うことだった。もう十年くらい前だろうか。

 そういえば、新宿のオペラシティで、ティルマンス展をみたとき(調べてみたら2004年)この写真集に収録された写真も展示してあった。そのときにそう思ったのだった。

 なので、杉田敦の書いた上記のような分析は、そこまで作為的な意識がティルマンスの表面に浮き上がっていたのか?そう書かれてみれば(言われてみれば)作家のスタンスの底流にはそういうこともあるのかもしれないが、コンコルドを撮っているときには、もっと「少年のときの心」のような気分が支配していたのではないか。あるいは最初の数枚がそういう気分で、そのあと作品にするために撮りためたという順番だったかもしれないが。

 小さな子供が親と一緒に線路脇にたたずんで、目の前を通過していく電車や列車を一心不乱に眺めるときの心理はどういうことなのだろうか?コンコルドを見上げる少年たちの心理もそれと似ている?成長していくための生理的な決め事として「ここではないどこかを夢見る」とか「なにか別のところへ向かうものを憧れる」という気持ちが発生するように人間にはプログラムされているなんてことはないのかな。そういう気持ちがあるから、ここのところの関連付けは思いつかないものの、なにか種の成長や維持につながるべく前向きに「生きていく」ことを、言い方は悪いが「強いられる」ようになっている・・・みたいな。

 大人になって、毎日、通勤途中に電車が走っていくのを眺めていても、小さな子供が線路際で一心不乱に電車や列車を眺めている同じ気持ちが蘇る、と言うか、その気分の欠片でもよいから思い出す、なんてことすら出来ない。だけど、この写真には実は新幹線が写っているのだが、こういう高い場所から俯瞰して広い平野を見渡すその中に、白い「線」になった東海道新幹線が、遠くから見ても実に爽快な高速で平野を横切っているのを見ると、こういう静止画だと全く伝えられないのだが、目の前でその動いてくのを見ていると、そのときだけは、上記の「気分の欠片」を思い出せたような気がした。

 「コンコルド」を見上げたティルマンスの気分は、その瞬間には「一般の人が実践できる立場にとどまる」などという「縛り」というか「決まり」は少なくとも最前面には出ていなくて、やっぱりこの「少年のときの気分の欠片」があったのではないだろうか。

Concorde

Concorde