都内で美術館とギャラリーをはしごする


5月2日土曜。都内で美術館とギャラリーを巡る。
小林清親展(練馬区美術館)、広重と清親展(太田美術館)、野村佐紀子UTSUSHIYO(AM)、市橋織江WAIKIKI(EMON)、記憶と記録展(KANA KAWNISHI)、サラムーンNOW&THEN(AKIO NAGASAWA)

茅ヶ崎から湘南新宿ラインで池袋へ、西武線に乗り換えて中村橋。徒歩ですぐ、練馬区美術館。清親の版画、東京名所図の光線画シリーズを見ていると木村伊兵衛の写真が思い浮かぶのだから、写真やカメラに毒されている。しゃぁない。版画に描かれた範囲(画角)が28mmを中心に21から35mm、まれに50mmくらいまで注視される感じで、基本は横、人物が多くは点景として構図的に落ち着きのよい辺りに配置される。凄まじい決定的瞬間ではなくて、だけど、ほどよく決定的な動きが人物の姿勢などから読み取れる。
清親がこの絵を描いたのが1880年前後?木村伊兵衛が例えば両国の花火を住宅の屋根から眺めるシルエットの人の写真を撮ったのは1950年てとこだろうか。両国の花火は縦画だけど。
自分の中では木村伊兵衛の写真が覚えてあって、あとから清親の版画を眺め、似ているとか思っているが、実際は清親の版画がずっと先にあって、木村の写真が後に撮られているから、写真は1950年になっても絵画からの縛りや模倣を抜け出せていないなどと短絡してしまいそうになる。が、絵画か版画か写真か、と言うのは、この場合はもしかしたら些細な問題であり、それぞれにこのレベルで違いを作らなければならない(越えたり独立しなければいけない)と言う考えが間違っていて、人が「構図がいい」「いい瞬間だ」と感じる、木村伊兵衛は「粋なもんです」と言っていたそうだが、そう言う平面作品を構成するときに人が、なんて言うのか、落ち着きがいい、と感じる「在り方」は、あまり変化せずにずっとあったってことなのではないのかな。と言うか、そうなんだろう。ではそう言う(比較的)不変に継承されている構図の落ち着く美しさ、なんちゅうか腑に落ちる感じは、どうして共通価値になったのか。
いや、そんなことはない?グローバルな同時代に属する(なんて書き方も傲慢だが)世界のどの国でもベースにある美術の常識的教育の成果にすぎず、構図の良さがまったく別個に確立されたところもあるのかな?
昨年あたり、ジャポニズムの西洋絵画への影響を提示するコンセプトの展覧会が流行っていたが、当時の西洋絵画の構図と、流入した日本の構図の差も、当時はものすごい違いとして驚異を持って見られたのかもしれないが、今となっては説明されても、へぇーそうなんだぁ、って感じで見てしまう。例えば、その両方を包含する共通の、もっと上位の美の認識がどこから出来るのか?ってところに興味が向く。
うろ覚えで、なんとなくしか思い出せないが、例の人類最古と思われるどこぞの洞窟に描かれた壁画の狩りの絵も、すでに被写体、、、じゃないよ、描かれた動物や人は躍動した決定的瞬間だったのではないか。(とか書いてから、検索エンジンで「狩りの壁画」って入れて画像検索したら、全然そんなことなくて、動物の図鑑的な形体図形も多かった。)
 だとすると、人は喜怒哀楽の感情がほとばしるとき(ハレまたはケのとき)に、その高ぶった感情を絵などで他人に伝えたい、もしくは共有してもらいたい、という気持ちが働くように出来ていて、そう出来ている理由はまたぞろ種の保存のための本能とかなるのかどうか・・・それはさておき、そういうところに根差したところから、絵(写真)にしたい場面や瞬間が決まってきている、そういう延長に、清親と木村伊兵衛も連なっているから、いま私が2015年にその二人の共通性を感じて、ふむふむ、などと思っている。
 なんてことはないか?いや、そういう感情を表現するのは内発的な自己表現なわけだが、彼らは鑑賞するお客さんの要望に応えるべく、もっと言い換えると無意識的に誉めてもらいたいというところから始まって、版画を描いたり写真を撮っていたのであり、壁画から始まる共通意識なんてのはちゃんちゃらおかしい、って言う気もすごくしながら、こんなことを書いてみました。
 ここで例示した木村伊兵衛のようなわかりやすい「上手い」写真=決定的瞬間と言う価値の以降に、ニューカラーとかコンポラとかアンチクライマックスとかの流れが写真では、もしかしたら絵画でもそういう表現が、出てきたのだとすると、そっちの方が、たしかに新しいのであろうが、とても病的であり、科学の進歩と暮らしの変化とグローバル化とIT化という急激な変化に、人類の生物としての「肉体の方の進化」が追い付けないまま、便利という名の下の「生活の標準の変化」から発生してくる多様なストレスから逃げなければならないと言う防御の(無)意識が表出させた表現・・・だったりして。