廃校の金次郎


何ヵ月か前にパソコンの、何かの画面の片隅に出ていたじゃらんか何かのお奨め宿案内の表示に惹かれ、そのあとその千葉県養老温泉にある宿の感想が書かれた口コミなんかも読んだりした結果、なんか良さそうじゃんってことになり、交通費があまりかからない分、ちょい高くても美味しいもの食べようぜ、って「語尾がぜ」の気分になって予約した。4日から5日、一泊で家族のMと二人で行ってきた。
事前に調べても宿周辺に行きたいところが見つからなくて、象の国に熟年夫婦で行くのもなんだしなぁ、鴨川シーワールドなんかはめちゃ混みだろうし、近くにあるらしい千枚田の風景を眺めに行くのもいいけどそれもどうなんだろうね?といった感じ。早目に宿に入ってゆっくりして、翌日どうするかはそのときに、雨の予報になっている天気の様子を見ながら決めますかね。なんだかぱっとしないような、あやふやな計画だった。家から自家用車で行こうと思っていたが、ゴールデンウイークに都内を抜けるのも渋滞必至なので、と思い直し、五井駅までは東海道線横須賀線と乗り継いで、五井で小さなレンタカーを借りることに、旅行に出る数日前に計画を変えた。借りた車はマーチだった。
そう言えば、千葉県には田園や雑木林に囲まれたカフェがポツポツとあるのではなかったか?と思いだし、そんなのも幾つか調べておいた。
養老温泉は大多喜町の近くで、つげ義春の何かの作品に大多喜の商人宿が描かれていたな、などと思い出したりもしたがそれ以上は調べなかった。
いま、これをここまで書いたついでに調べてみたら、つげ義春大多喜町の関連はたくさんの作品に及んでいるみたいだ。
さて、実際に旅行の日が近づいてきて直前になったら、5月4日も5日も雨の予報が消えていき、せいぜい4日の夜遅くから5日の朝早くまでの夜中に降るかもしれない、と言う程度になった。家族のMと一緒だと、雨予報が覆って晴れになることが多い。私が一人だとそうは行かない。実際、雨には降られずに帰ってきた。
旅行は4日に五井でレンタカーを借りて、調べておいた雑木林で囲まれた店で昼の定食を食べてから、小湊鉄道沿いに車を走らせる。途中、養老渓谷の駅の辺りで、名前を忘れてしまったが、なにか小さな芸術祭に行き当たり、廃校の、校舎はもう取り壊されてしまったがこうして二宮金次郎の像だけは残っていた小学校跡地の駐車場にレンタカーを停めて少しだけぶらぶらし、猿が道路を渡っていくので少しビックリした。
一昨年だったか津田直の写真展を観に黒磯から板室温泉行きのバスに揺られ、十キロくらい行ったところにある写真展会場(森を切り開いた敷地にチャペル風の建物やレストランが建っていた)の近くでバスを降りたら、そのバス停は木造校舎のある小学校のすぐ前で、懐かしくなりちょっと校庭に寄ってみたのだが、そこには来春(その時点の来春とは2014年の3月のことだろう)で廃校になると書かれていた。昨晩秋、いや、冬の始まりの頃かに香川に行って、もう町の名前も忘れてしまったが、風待ちの港に近い町を歩いていたら、校舎の取り壊された、たしか正門だけが残っている学校の跡地に行き当たった。小学校や中学校の統廃合が進んでいることはニュースなどで知っている訳だが、旅行に出る度にそう言う現場に行き当たるから、実感される。
二宮金次郎像が自分の出た小学校にもあったのかどうかは、よく覚えていないのだが、いずれにせよ金次郎像をどこかでこんな風にうしろから眺めることはなかったかもしれない。薪を背負って歩きなから本を読むのは、スマホ歩きみたいで、良くないじゃないか、とか思うけど、人通りも少なくて他人への迷惑が皆無なら、せいぜい躓いたり、小川に落ちたりしないでください。
4時前には宿に着いた。昼寝をして温泉に入り、夕食に大満足した。部屋数が二十に満たない小さな宿で、子供連れも少ないのかロビーなどもひっそりとしているし、風呂もほかに三人か四人か、ぽつぽつしか客の姿を見ない。ゴールデンウイークにもかかわらず空いているのかと思いきや、食事どきの準備されたテーブルの席数などをチラチラと眺めるとどうやら満室のようでもある。静かな宿ってのは客層も要因なんですね。泊まりに来ている家族連れの子供たちもおとなしげな子が多い、なんてのは思い込みによる勝手な解釈に過ぎないのか。子供たちも宿の有する雰囲気と言うのか空気を察しているのかな。
5日。まず養老渓谷の粟又の滝を見物。水量は少ない日だったが、ほぉ!と思える景色。川のなかにはおたまじゃくしや小魚を捕まえて遊ぶ親子連れ。水月寺ではいろんな種類の躑躅が咲く庭を歩いた。
それから4日の夜にスマホでYahooにアクセスし、いすみ市×寿司などで検索し調べておいたいすみ市の岬町だかの、特になんの特徴もない田園風景の残る郊外の街にぽつんとある「切通」と言う名前の寿司屋まで小一時間レンタカーを走らせる。途中、大多喜の町も通過する。
カーナビに従順に従うことで、一体どこら辺りをどっちに向かって走っているのか皆目わからないにもかかわらず、入力した寿司店の住所の辺りまで連れていってくれる。いや、運転しているのはこっちだから、連れていってもらっている訳でもないか、でも主体が自分って感じもしない。じゃあ、ナビが主体的に考えてくれているか、と言えばナビはナビで開発者の書いたアルゴリズムに沿ってインプットされた位置情報と地図情報を照らし合わせながら指示を出しているだけだから、考えてるのではなく、考えないオートマチックに従っているだけなのだな。では、考えてくれているのは、開発者なのかと言えば開発者は汎用的なアルゴリズムを確かに考え出した。だけど一つ一つの現場には出向かないから、現場、運転が行われている現場には関与していない。道順を地図を見ながら考える、と言う行為は、こう分析すると、考えることではないのではないか?それは読み解く能力を発揮するだけのことで、即ちこういう行為を「考えるまでもない」と言うのか。
かなり話が脱線しました。
でも、また、書き足すと、子供が親に連れられてどこかへお出掛けするときに、赤ちゃんや幼児は、どこへ何をしに行くのかは、興味の範疇外である。そんなのは大人の都合であり、赤ちゃんや幼児は目下の目の前の現実とどう渡り合うかに興味がしんしんである。磯崎憲一郎さんが作家として文芸だかの賞を獲る前に保坂さんのHPに載せた文章、それは家族でメキシコのピラミッドみたいなところへ観光に行く話なのだったが、その小説に子供はどんな有名な観光地に行っても、結局は足元の砂利や土で遊び出す、と言うことを書いていたが、そう言うことで、それがいつから何処に何をしに行くのか?自分はそれに同行したいのか、したくないのか、その自意識に基づく表明を始めるのだろうか?その子によって差はあるもののいくつくらいからか?いや、なに、ナビに連れていってもらう感は、もちろん目的地設定は自分でしているのだが、それでもまだ自己主張が乏しい赤ちゃんや幼児みたいな感じもするのである。
結局、「目的地付近です。ルート案内を終了します。」とナビに宣言されてから後に、一回道を間違えてUターンしてから、その切通と言う寿司屋に到着した。
暖簾が出ているが、引き戸をがらりと引き、こんにちは!と声を掛けても誰もいない。ネタのケースには布巾が掛けてある。暖簾を、見直すと外には出ているが竿の右すみに暖簾が片寄っている。この片寄りは休業を示すのかな?何度か、こんにちはー、とか、すいませーん、とか言ってから諦めて車に乗り込み、エンジンをかけたところで助手席にいた家族のMか誰かがこっちに来る、と言う。ちょうど出前の配達から戻ってきたご主人だった。それで店内に案内され、握りの、三つあるグレードのうちで真ん中のやつを頼んだ。
水タコ、海老、鉄火巻、玉子、サヨリ、鮪赤身、イクラ、、、うーん、早くも何がどの順番で出されたか覚えていないのが悔しい。詳細なグルメレポートはこの店の食べログなどのコメント欄にいろいろと書かれているので、ここには書かないけれど、また来てみたい素晴らしい店でした。そう言う口コミによれば光り物の熟成寿司をちゃんと出せる稀少な店だそうだ。店主は、これが当たり前なんですけどねえ、と言っていた。
ご主人に聞いた近くにあると言う清水寺に寄り、さらに山羊が草を食み、ブランコが榎の枝に設えられ、そんな牧歌的な広大な庭があるBROWN FIELDSと言うところに寄って、のんびりと過ごす。陽射しも風も新緑も快適。