青い車体カバーと赤い花


写真は母が入居している施設に行く道沿いの家の車とバラの花。母の日に。

写真とは無関係のメモです。
東京都現代美術館で開催中の他人の時間展、会場に入ると最初は下道基行の映像作品がある。天井から吊られた二つのスクリーンに液晶プロジェクターによって写し出されているのは同じ時間にこれから日の出を迎える町の空と、経度こおよそ180度違う町のこれから日の入りを迎える空を映している。徐々に暗くなる空と徐々に明るくなる空。途中2枚のスクリーンの空は同じ明るさとなり、明るい暗いか入れ替わる。
これを見ていて、思い出したのが大学生のころ、記憶が正しければSFマガジン誌に投稿したショートショートのことだった。理系にもかかわらずひょろひょろとした神経質そうな文学青年風であった私は、ブラッドベリのファンタジーが好きだった。だから、そんな風なショートショートを書いているつもりになっていた。
間借りをしていたS家の、玄関を上がって居間を横切った先にあるガラス戸を開けるとその先に廊下が庭に面して続いていて、この廊下に沿って学生が下宿している四畳半が三部屋並んでいた。その一番手前が私の部屋で、よくふとんに腹這いになり枕元に置いた蛍光灯の明かりのなかで、大学ノートに万年筆で何やら独りよがりの文章を、腹這いになって書き連ねていた。最近は腹這いで長時間にわたり文章を書くことなんか、肩や首が凝り固まったり腰がギシギシ痛んだりでなかなかできない。あの学生時代にはそんな不具合は起きないので、即ち筋肉も骨も若々しかったってだけなのだろうが、よくそう言う姿勢でいたものだった。本を読むときも、何かを書くときも。
地球で今まさに日の出を迎えようとしているとある国の男と、今まさに日の入りを迎えようとしている別の国の女、この二人が登場するショートショートだったことだけ覚えている。書いたのは1976年か77年か。男と女がそれぞれを知っている設定なのか、全く知り合っていない二人なのか、どういう風にしたのかな。多分だけど知り合っていない二人のような気がする。知り合っていない二人なのにそれぞれの朝の迎え方と夜の迎え方に、偶然と言うのか赤い糸と言うのか何か今から先の将来に二人が交差する可能性を示したのかもしれない。いや、もっと微かな、例えばそれぞれが地球の反対側のことを、即ち朝を迎えながら夜を迎えようとしている町があることを、そしてその逆のことを、思うだけかもしれない。こう書いてくるとそうに違いない気がする。物語を構築する力なんかないから、なんとなくの雰囲気に頼った、あやふやで力の乏しい文章だったのだろうな。朝や夜を迎えるときに、頭のなかで宇宙の空間に浮かんでいる球としての地球を思い浮かべ、夜と昼の境界を、その球に乗っている自分が、今、通過しようとしていると言う立体模型のような場面を思い浮かべる、そう言う人が地球のこっちと向こうにいます。それだけの話だったのかな。当然、採用なんかされなかった。
こんなのは、下道作品に会わなければ、絶対に(絶対なんて単語は滅多に使わない)思い出さなかったに違いない。
他人の時間ではなく自分の昔の時間ことを思い出したってわけです。