例えば犬が苦手だったことを思い出す


 車窓を眺めているうちに雨が降り出して、途中には土砂降りになった。
 読みかけのアンダスン短編集を読み終わる。「南部で遭った人」という短編には戦争で飛行機が墜落した後遺症でいつも身体に痛みを感じていて、それをまぎらわすために四六時中アルコールを飲んでいる詩人の男が出てくる。禁酒法の時代で、アルコールの入手にはそれなりの苦労はありそうだが、それほどの苦労ではないようにも読める。サリー小母さんと言う登場人物はニューオーリンズで賭博や居酒屋をやってきた。歳を経て、いまはもう辞めている。語り手の「わたし」は二人を会わせたいと思い立つ。これはある男に出会って、その人柄に惹かれるところがあって、そこからそういうこと、あの小母さんと、この男を会わせてみたい、と思いつく。でも二人が会ってなにか新しい物語の展開が始まるわけでもない。それぞれの登場人物はすでに人生の多くは過去に属していて、その過去から繋がっていて現在の行動に人の柄が出来ている。いや、こう書くとなんだかわかりにくいけれど、当たり前のことを書いているだけです。その人柄の交差が淡い優しさのようなことを生むことを「わたし」はたぶん直感的に感じたから二人を会わせたってことになるのかな。収録された物語のなかでは最も何も起きない淡々とした掌編なのだが、こういう小説に出会うのが読書の楽しみだ。
 土砂降りになると、窓ガラスが濡れて、新たな雨粒が流れて、車窓から撮った写真に写る、例えば向こうのビルの直線もふにゃふにゃになる。自転車を傘をさしてこいでいる人がいる。ピンクの雨合羽を着て、傘などささずに端正に、そう端正に、自転車をこいでいる人もいる。
 私は、犬が苦手。子供のころ、お隣の家で飼っていたマリという名前の柴犬(よりもちょっと白っぽい犬)が、よく吠える犬で、いつまでも懐かず怖いままだった。それがそのまま犬は怖いという私の基本姿勢を作ってしまったに違いない。
 お隣にマリがいた家に住んでいたのは1960年代のことで、なにか一つそのころのことを書こうかと思うが、いくらでもいろんなことが思い出されるわりに、ここに書くべき一つのエピソードが選べない。が、それでもひとつ。
 裸の女性の写真がたくさん掲載されていた雑誌(たぶん洋書の雑誌)がどこかで棄てられ、その本のページがどういう理由なのか解けてしまい、風に乗ってなのか小学生の男の子達数人(四〜五人)の遊んでいるところに飛来してくるという大事件があった。広場に集まって野球の真似事をやっているようなところに空から降ってくるのだ。すごい。
 私もその小学生の一人だったのだ。みんながみんな、無視もできず棄てることなど考えず、かといってこっそり家に持ち帰る勇気もなく、それでも所有権を主張したい。みんなでじゃんけんをして勝った順に欲しいページを分けた。それで分けたけれど持ち帰れないから、結局はひとまとめにしてどこかに隠すことにした。隠す場所が見つからないまま、ある日の長い季節の午後の一日、みんなで近所をうろうろと歩き回った。結局、雨が降っても濡れない大きな植物の根本あたりの地面に埋めた。埋めると言っても深いところというわけではなく、表面に砂をかけて隠す程度のことだった。何日かして掘り返すと、少しモデルさんの肌が土で汚れた写真が出てきて、それでも金髪のモデルさんは相変わらず微笑んでいた。裸で。何日かのうちに何回か掘り出しては埋めている、するとそのうちにくしゃくしゃになってきて、あるときに誰かが自分の所有ページをくしゃくしゃに丸めて棄てた。
棄てたくなかったのかもういいやと思ったのかよく覚えてないけれど、たぶん私も一緒に自分の所有のページを棄てた。
 なんて思い出話は、以前にもこのブログに書いたかもしれないし、しかも話の詳細は違っているかもしれない。記憶なんか変容して、あとから創作したことが加わって、また時が経てば、事実と捜索が渾然一体となって記憶のような作る話になっていくものなのだからね。
 1960年代に住んでいた家の近くには看護婦さんを養成する学院があって、年上の彼女たちと草野球をした。女だからとたかをくくっていたが直球がぜんぜん通じずにボロ負けをしたこともある。相手が十八くらいでこっちが十歳か十一歳くらいだったのだろうか。