見方の多様性みたいなこと


過去の時間が増えてきて、思い出との照合から何かがヒット(多くは極私的ななつかしさを呼ぶ思い出をヒット)しやすくなっていたり、あるいはヒットするためのアプローチ方法と言うか、何を持ってヒットさせるかの手の内が増えている(そうか、そう言うのを引き出しが増えるって言うのか)、そう言う状態になっていくのが、もしかしたら「いい感じの」歳の重ねかた、なのかもしれない。
なんであらたまってこんなことを思ったのかと言えば、とある雑誌に載っていたもう80歳くらいの大家の写真家の作品を眺めていて、これがなんて言えばいいのかな、地味と言うか、キャッチーな要素がないと言うか。写真コンテストの審査員の解説などで、実際にそんなことは起きなかったのだから仕方ないじゃんと思うものの、やれ右側の人がいない方がよかった、とか、やれこのシチュエーションに犬を連れた人でも通ってたらもっと良かった、とか、電線が邪魔、だとか。そんなうまいことにはならないわけで、無い物ねだり甚だし、と感じるものの審査員であるからにはそうでも言わなくてはならないだろうし。となっている、その「もう少し頑張りましょう」的な感じがしたのだ。その老大家の新作には。
コンテストでは、これを言わせないためには、ひたすらひたすら歩き続けて、待ち続けて、文句の付けようのない決定的瞬間をとらえるべく、確率向上のために、めったやたらに枚数を撮る、こう言うことになる。しかしそんな風に構図的ベストの瞬間をとらえるべく枚数を撮ると言うのは、例えば森山大道の言っている「枚数を撮らないと何も見えてこない」とは期待している効果も目的も違う。・・・気がする。森山大道の言う「枚数を撮らないと始まらない」の主張は、そうしないと自分を見極められないと言った感じだろうか。
効果も目的も違う、と書いたけれど、いや、そうではなくてどこか深いところでは、結局は同じかもしれないし。
老大家の作品を名前を隠してコンテストに紛れさせれば、たくさん「もう少し頑張りましょう」といった指摘があるに違いない。そしてそれは、このブログ記事の最初に書いたように、歳を経た結果のなんでも何かの入口になるような見え方がまだ出来ていない、老大家がもしも口を開くとすれば「所詮は若造の狭量な価値観のちゃんちゃらおかしな暴露。ダサい!」ってことなのか。
ま、決まりすぎは却ってダサいってこともあるから。
さて、では、なにが優れた写真なのか?いや、優れた写真などと言うことが何かの明確で迷いようのない規準で図れないのであれば、そんなことで良し悪しを決めようと思うこと自体が、そもそもダサい。
あるいは、ある種の写真の価値は年齢の壁を越えられない、ということ。

載せた写真とはまったく関係のない話でした。